明日の朝食に使う予定だったジャムを切らしていることに気づいたが、慌ててスーパーへ駆け込んだ帰り道。ざあざあと音を立てて地面に落ち砕ける雨を見ながら、は傘を持って来てよかったと胸を撫で下ろした。空が雨雲にすっかり隠されて暗く淀んだ町に、淡い水色の傘がぱっと咲く。軒先で足止めを食らう他の客を横目に、は帰路へついた。
アスファルトが雨で濡れて色を変えている。道の端には早くも行き場の無い雨水がたまっていた。バケツをひっくり返したような雨とでも言おうか。傘を差しているとはいえ、これほど大雨だとのんびりしていたら服が濡れてしまうだろう。普段よりも速く歩いて家を目指すの視界の端で、不意になにかが動いた。は反射的にぴたりと足を止める。
その“なにか”を捉えた方角——東を向くと小さな公園があった。いつも子どもたちの笑い声が響くこの場所も、今はブランコや滑り台が哀愁漂う姿で鎮座しているだけだ。きょろりと見回してみるも、特に変わったところはなさそうだった。もしかしたら、風かなにかでブランコが動いたのかもしれない。は内心首を傾げつつも、まあいいかと諦めて再び歩き出した——と、十メートルほど進んだところでまた立ち止まる。やっぱり公園に、“いる”。なにがと問われれば答えに詰まるが、確実になにかが。
は好奇心に負けて、公園へと足を踏み入れた。アスファルトとは異なり柔らかな土は吸い切れないほどの水を含んでいて、体重をかけると嫌な感触がした。歩くたび靴の裏が引っ張られるように泥へ沈む。滑らないよう細心の注意を払いつつ、はひとまずブランコの方でも見てみるかと、そちらへ向かおうとして——なにかが動くのを感じた。
それはブランコではなく、その隣に立っている大きな広葉樹。立派な根の上で一匹のモンメンが雨宿りをしている。モンメンがふらふらと手持ち無沙汰に羽根を動かすその仕草。それこそがの感じた違和感だったらしい。なあんだ、野生のポケモンか……と、落胆とも安堵ともつかないため息を漏らし、が踵を返そうとした時。雨音に混じってモンメンの鳴き声が聞こえてきて、それがまるで自分を呼び止めているかのようだったから、はその場を去るに去れなくなった。ちらりと視線を遣れば、モンメンはなにかを訴えかけるような眼差しでこちらを見ている。
……寒いのかな、それともお腹が空いたのかな。雨が弱まる気配はない。はしばし逡巡したのち、カバンからタオルを取り出した。それからモンメンのそばへ寄る。葉に似た羽根は雨粒を弾き、つるつると雫を転がしていた。それとは対照に身体の綿はじっとりと濡れてしまっているようだ。感情が読めないオレンジ色のつぶらな瞳がをじいっと見ている。
自分に助けを求めているだなんて、思い上がりかもしれない。さっきの鳴き声がなけなしの体力を使った威嚇の可能性もあり得る。相手は野生のポケモンなのだ。けれどどちらにせよ、弱っているのだったら見過ごせない。こちらから近づいて、びっくりして逃げようとするのなら無理に追いかけるのは止めよう。は覚悟を決めてタオルを広げた。
モンメンは相変わらず黙ってを見ている。その身をタオルで包まれた時は一瞬びくりと反応したけれど、暴れたり嫌がる素振りは見られなかった。ポケモンセンターはここから遠いから、ひとまず家に連れて行こう。はモンメンを胸に抱えて家路を急いだ。
お風呂に入れて、ドライヤーで乾かしてあげるとモンメンは少し元気になったようだった。終始とてもおとなしかったためは肝を冷やしたが、今は部屋の中をふわりと漂い、物珍しそうに周りを見渡している。怪我もしていないのでどうやらポケモンセンターへ連れて行く必要は無さそうだ。よかった。は興味津々なモンメンに口元を緩ませながら、お皿にポケモンフーズを盛り付けた。は自分のポケモンを持っていないが、しばしば遊びに来る家族がポケモンを連れてくるので、保存の利くポケモンフーズを常備しているのだ。とはいえモンメンは口をつけてくれるだろうか。見ず知らずの人間から出されたものを訝しむのは当然のことだし、ましてや野生のポケモンなのだ。とりあえず反応を見てみるしかない。はキッチンを出ると「ねえ」と声をかけ、お皿を床に置いた。
「お腹空いてないかな。よかったら食べて」
モンメンはとお皿とを交互に見遣ると、やがてゆっくり床へ降りた。見守りたいところだが、じろじろ眺めていては食べられるものも食べられないだろう。は少し離れた場所にあるソファへ腰掛け、テレビをつけた。気にしていないふうを装ってチャンネルを変えると、ちょうど天気予報のコーナーをやっているニュース番組にたどり着いた。なんでも明日の早朝には雨が止むらしい。はぼんやり眺めながら、それとなく横目でモンメンの様子を伺った。おずおずとお皿に近づいて、ポケモンフーズのにおいを嗅いでいるみたいだ。しばらくすると、カリカリと咀嚼する音が聞こえて来たので、は安心してテレビへと視線を戻した。
夜も更けてきた頃、が窓際に置いたクッションの上に乗ってモンメンは眠った。その微かな寝息を聞きながらもベッドへ潜り込む。ただジャムを買いに行っただけだったのに、まさか野生のポケモンを保護することになるとは。自分でそれを選んだから後悔など無いけれど、いかんせんポケモンのお世話に慣れていないので気疲れした。は瞼を閉じると、五分もしないうちに眠りへ落ちたのだった。
翌朝、が重みを感じてふと目覚めると、お腹の上にモンメンが乗っていた。まだ夢の世界に片足を突っ込んでいたがびっくりして声も出せずにいると、モンメンは右の羽根をひらりと振って小さく鳴く。まるでおはようと言われているみたいで、は眠たげな瞳のまま微笑んだ。
「おはよう。お腹空いた? それとも喉が渇いちゃったかな」
問うても返事は無い。代わりにモンメンはの上から退くと、ふよふよと飛んでいって窓へ身体をくっつけた。それからなにか言いたげにの方を見てくる。窓を開けてほしい……のかもしれない。が確信を持てず悩んでいるうちにも、モンメンの身体を包む綿がぎゅっぎゅっと窓に押し付けられて、ぺしゃんこになってしまいそう。は慌ててベッドから降りると窓を開けてやった。早朝のひんやりとした瑞々しい空気が部屋へ流れ込んでくる。それが心地よくてが目を細めていると、モンメンはするりと窓から抜け出して行った。吹く風に乗って、たんぽぽの綿毛が飛ぶみたいに流されていく。
お別れを言う暇も無かった。呆気に取られたは小さくなっていく姿をただただ見送っていたが、不意にモンメンがこちらを向いた時に我に返って、遠慮がちに手を振った。
昨夜見た予報の通り、雨は止んでいた。窓から見下ろした町は水溜まりを所々に作っており、そこに映り込む青い空には雲ひとつない。は伸びをしながら大きく深呼吸して、モンメンの飛んで行った方角を見つめた。
不思議な子だった。警戒しているのかと思いきや、身体の上に乗ってきたり……。そんな気ままなところが可愛らしかったな。はしばらくぼうっと空を眺めていたが、そのうち肌寒くなってきて窓を閉めた。野生のポケモンを保護する貴重な体験になったと思いつつ朝食の支度に取りかかる。献立はだいたいいつも同じだ。トースト、スープ、それからサラダ。たまに気が向くとオムレツも作る。トーストに塗るのはソクノのみのジャム。甘酸っぱい風味がはお気に入りなのだ。それこそ、天気が崩れると分かっていても買いに走るくらいには。
スプーンで掬えば、あまいミツで煮詰められた果肉が、てらてらと宝石のように輝く。ジャムにするとソクノのみは色を濃くして、オレンジ色に近づくのだ。あのモンメンの瞳と同じ色。これから先、はこのジャムを食べるたび、野生のモンメンに宿を提供した不可思議な一晩のことを思い出すのだろう。
——そんな大仰なことを考えていたがモンメンと再会したのは、それから一週間後のこと。洗濯物を取り込んでいたの背中に、ぽふんとなにかがぶつかってきた。驚いて振り向くとそこに居たのはモンメンだったのだ。やけにモンメンと縁があるなと思ったが、人慣れした様子となにかを期待する瞳に、はある仮説へと思い至った。
「えっと……あなたは、この間の子かな?」
正直、他の個体と区別がつけられる特徴はこれといって無いので、見分けがつかない。勘を頼りにおそるおそる尋ねたに、モンメンはそうだと言うように頷く。
もう二度と会えないと思っていたのに。ぱっと顔を輝かせ、はモンメンに笑いかける。
「また会えて嬉しいな。そうだ、おやつ食べていく?」
カゴの中にすべての洗濯物を入れると、は窓を開けてモンメンを家の中へと招いた。昨日、家族が訪ねて来た時に連れのポケモンへ出したポフレが余っていて、ご近所さんにお裾分けするか、どうしようかと思っていたのだ。
モンメンは嬉しそうに鳴くとに続いて部屋へ入った。ソファの上にあの日ベッドにしたクッションを見つけてそこへ降り立つと、何度か跳ねて中身の綿の偏りを良い具合に調整する。その間にお皿の上にポフレをいくつか乗せて戻ってきたは、すっかり寛いだモンメンに口元を綻ばせた。
「そのクッション、気に入った? あなたの特等席だね」
モンメンの目の前にお皿を置いてあげれば、オレンジ色の瞳がきらきらと輝く。よっぽどお腹が空いていたのだろう。おいしそうに食べる姿を見守りながら、は紅茶を淹れたティーカップを手に、近くの椅子へ腰掛けた。
猫舌のが冷ましながら紅茶を飲み、ティーカップの中身があとひと口で無くなるだろうかといった頃。ポフレを食べ終えたモンメンが窓の方へ向かった。あの日と同じく外へ出たいのだろう。モンメンが身体を押し付けてアピールする前にが窓を開けてやると、ばいばいと羽根を振りながら風に乗って去って行った。当たりだ。はこの間とは打って変わって、にこにこ笑いながら手を振る。行動パターンが掴めさえすれば適応するのは簡単だった。
モンメンは遊びに来たと言うより食べ物をもらいに来たのかもしれない。雨風をしのげて、野生ポケモンの脅威も無く、おいしい食べ物が確実にもらえる。モンメンからすれば夢のような場所。あの一晩でが悪意を持つ人間ではないことも知っているから尚更だ。
ああやって喜んでくれたり、おいしそうに食べてくれたり……そんな姿を見ているだけで幸せな気持ちになる。パートナーポケモンがいたらきっとこんな感じなのかなとは思う。モンメンは縛られることを望んでいないだろうから、あくまでも味わえるのは雰囲気だけだが。
またモンメンがいつ来てもいいように、おやつを用意しておかなきゃ。今しがた見送ったばかりだというのに次会う時を楽しみにしながら、は窓を閉める。ポフレの乗っていたお皿を手に取ると、モンメンの形に沿って凹みのついたクッションを愛おしげに見つめるのだった。
◇◇◇
とモンメンが出会ってから半年ほどが経った頃。近頃は夏の日差しも徐々に和らいで、そろそろ秋が始まろうとしていた。
その日もモンメンはの家へ遊びに行こうと、ベランダまで飛んで行った。が住んでいるのはこぢんまりとしたアパートの二階で、よく日の当たる角部屋。淡い菜の花色のカーテンが目印だ。手が無いモンメンはノックの代わりに、窓に優しく三回ずつきをする。こつ、こつ、こつ。そうするとたちまちがやって来て、ふたりを隔てる窓を開けてくれる。
「こんにちは」
モンメンも片方の羽をひらりと上げてご挨拶。こうやって言葉に反応するたび、が嬉しそうに笑ってくれるのがモンメンは好きだ。見慣れた家に上がると、いつも使っているクッションのところへ。今日のおやつはなんだろうと思いながらモンメンが待っていると、トレイを持ったがキッチンから出て来る。その上にはポフィンの乗ったお皿がふたつ、それからティーセットまで。明らかにふたり以外の誰かの分が含まれている。モンメンが不思議そうにしていると、視線に気付いたがそっと笑った。
「今日はね、お客さんが来るの」
お客さん。その単語にモンメンは尚もきょとんとしている。モンメンは幾度となくこの家を訪れているけれど、以外の人間に会ったことがないのでお客さんと言われてもピンと来ないのだ。
「私の妹だよ。ポケモンも連れてくるって」
「もし会いたくなかったら別の部屋に居る?」と尋ねるに、モンメンは首を横に振った。モンメンは人見知りではないし、なによりの妹に会ってみたかったからだ。
モンメンがポフィンをもぐもぐして待っていると、インターホンが鳴った。モンメンが使ったことの無い玄関からの音だ。がそちらへ向かうと、ほどなくして初めて聞く声がモンメンの耳に届いた。
「あれ、ちょっと模様替えした?」
「うん。ソファを日が当たるところにずらして、他はそれに合わせただけだけど」
「へえ、家具の配置で部屋の印象ってけっこう変わる——あっ!」
お客さんは珍しそうに部屋の中を見回していたかと思うと、不意にモンメンとばっちり目が合った。すると一直線にこちらへ向かってくるではないか。
なんだなんだ。モンメンはクッションの上で身じろぎした。
「モンメンだー! お姉ちゃんが話してた子だよね?」
「そうだよ。今日はたまたま遊びに来てくれてたの」
「ふわふわだねー。クッションの上がお気に入りなのかなー」
お客さん、もといの妹がモンメンを覗き込んで笑いかけた。おとなしい方であるとは違って物怖じしない、ハキハキした性格のようだ。それでも目鼻立ちが似通っていて、さすが姉妹と言ったところ。
「私もポケモン連れて来たんだ。ヒメンカ、出ておいで」
宙に向かって軽く放り投げられたモンスターボール。ぱっくり開いた口から伸びる光がポケモンの姿を象り、やがて実体を持つ。ヒメンカ。頭に大きな黄色い花を乗せた、くさタイプのポケモンだ。
ヒメンカはくるりと回ってひと鳴きすると、親であるの妹——ではなくに飛びついた。思わずモンメンがぎょっとしてクッションから浮かび上がる。それを見ていた妹がくすくす笑った。
「ヒメンカはお姉ちゃんにすっごく懐いてるんだよね」
「あはは。まあ、来るたびにおやつあげてるから」
ヒメンカはの腕に抱かれ、上機嫌ににこにこしている。も満更ではなさそうだ。モンメンはそれが気に入らない。今までモンメンがああやってに抱っこしてもらったことは無かった。おそらくはモンメンが自分のポケモンではないからと遠慮しているのだろう。
——ぼくもあんなふうに抱っこされたい!
妹が用意されていたポフィンの乗ったお皿を見せると、ヒメンカはおやつに気を取られてから離れる。今だ! とモンメンはのお腹あたりにとっしんした。と言っても、もこもこしている綿のおかげでは痛くないし、速度もそれほど出ないのでよろけもしない。
「どうしたの?」
はモンメンがなにをしようとしているのか理解できず、目を丸くしている。その間もモンメンはぐいぐいとお腹に頭をこすりつけてくるものだから、は困り果てて眉を下げた。
「もしかして、あなたもまたおやつがほしいの?」
——ちがーう!
モンメンはもどかしくて、駄々をこねるように羽根をばたつかせた。そんなジェスチャーすら意図が正しく伝わらず、は「そんなに食べたいの? いいけど、食べすぎると太っちゃうから少しだけね」なんて言って朗らかに笑っている。
思わず脱力しながら、モンメンは思う。もしも人間の言葉がしゃべれたら。おねだりして、に抱っこしてもらえるのだろうか。もしくは自分に腕があったなら。モンメンがを抱きしめることだってできるかもしれない。
むすっとしたモンメンはが用意してくれたポフィンを半ばやけ食いし、お気に入りのクッションに乗って不貞寝した。同じくおやつを食べ終えたヒメンカも、窓際で日の光を浴びながら楽しそうに踊っている。
はと言うと、賑やかさのおさまったリビングで妹と一緒に紅茶を飲んで談笑していた。
「ヒメンカはワタシラガに早く進化したいみたいでさ。最近、バトル頑張ってるんだー」
「そうなんだ。たしかに前見た時より逞しくなった気がする……」
思い返せば、がヒメンカに抱きつかれた際、以前より腕の力がしっかりとしていたような。
自分のポケモンが褒められて嬉しかったのか、妹は得意げに胸を張った。
「でしょー! そういえばお姉ちゃんはモンメンを進化させないの?」
「うーん、私のポケモンじゃないからなあ……。それに、バトルはあんまり」
「ああ、バトルはしなくてもいいの。モンメンはね、たいようのいしを使うと進化するんだよ」
ほら、と差し出されたスマホロトムをが覗き込む。画面には名前通り、太陽の形をした石が映っていた。燃えるような赤と橙の混ざった不思議な色合いに目を奪われる。
「でも、進化したいかどうかはあの子が決めることだから」
「……こんなにモンメンのこと思ってるのに、トレーナーじゃないのが信じられないや」
ポケモントレーナーの中には、ポケモンをバトルのための道具としか考えていない者もいる。それを悪と捉えるか、それもひとつのあり方だと許容するかは人によるだろう。しかし、ポケモンのことを第一に考えて慮ることができるのは良いトレーナーであると、皆が口を揃えて言うはずだ。妹から見たはお手本のような良いトレーナーなのだ。ポケモンを持っていないので、厳密にはトレーナーではないけれど。
「もしモンメンのトレーナーになれたら、それはもちろん嬉しいよ。けど、あの子は自由にしてるのが一番似合うもの」
自由な子でも、帰る場所があったら安心すると思うんだけどな。
ふたりの関係にそこまで踏み入るのは、些かお節介かもしれない。そう考えた妹は言葉を飲み込んで、眠るモンメンを優しく眺めるの横顔を見た。本当はいつもそばに居たいんだろう。モンメンだって野生とは思えないくらいに懐いているのは一目瞭然だ。噛み合いさえすれば、すんなりとパートナーになりそうなのに。がモンメンと生活を共にしている様子を想像して、妹はくすりと笑った。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもないよ」
20230717