さよならと笑う

 海の上を走る船はきっとこんな心地なんだろう。
 波をかき分けて進むラプラスの背に乗りながら、足元で海水がチャプリと揺れるのを見てそう思った。最初はむせ返るようだった磯の香りにも鼻が慣れてしまったらしく、胸いっぱいに空気を吸い込んでも支障はない。頭上をキャモメが軽やかに鳴きながら飛んで行く。

 港を発ってからだいぶ進んだこともあり、周りを見渡しても遠くに豆粒のような陸地が見えるだけ。行き先なんて決めていない。目的地などありはしないのだから。
 大きいとは言えないカバンにお財布と少しの着替え、それからラプラスのモンスターボールを詰め込んで家を出てきた。今となっては追手が来ないかとしきりに振り返っていたのがバカみたいだ。

「ねえ。私たち、ふたりだけになっちゃったね」

 時折周囲を見回し、水中からポケモンが襲って来ないか警戒しながら泳いでいるラプラスの後ろ姿へ、独り言に近い言葉を投げかける。なんとはなしに口にしただけだったが、くだらない呟きすらラプラスの耳は拾い上げてくれたらしい。ラプラスは長い首を後ろに向けて、くうんと相槌のような鳴き声をあげた。その瞳には不安や悲しみの色なんて無くて、むしろ希望に満ち満ちて潤んでいる。そのラプラスの黒いまなこに映る私もまた、晴々とした表情を浮かべていた。
 離別は決して悲しいものとは限らないのだ。家族も友人もふるさともいらない。私にはラプラスだけがいればいい。

「あなたがいれば、なんにも怖くないよ」

 ラプラスにそっと寄り添い、立派な首に頭を預ければ嬉しそうに喉を鳴らした。いつになく無邪気なラプラスの様子に私も釣られて微笑む。
 夕暮れを迎えて空は橙から紺へと色を変えつつある。水平線に沈む夕日の鮮烈な光に目を細めた。溶けるように輪郭を失っていく姿に、まばたきも忘れてしまう。夕日とはこんなに美しかっただろうか。思わず見惚れている私をよそに、ラプラスはご機嫌に歌い始めた。海風に乗って歌は遠い遠い場所まで響く。置いてきたあの人たちの耳にも歌声は届いているのだろうか。今となっては確認する術も無い。聞こえていたとして、まさか私と駆け落ちしているラプラスの歌声だなんて夢にも思わないのだろう。

「もうすぐ夜が来るね」

 明かりのない海上では、日が沈めば視界は暗闇に支配される。何も見えなくたってそばにラプラスが居れば心配いらない。もう、親の叱責を恐れてモンスターボールへ戻す必要はないのだ。私が親の抑圧の下に在って苦痛を感じていたと同時に、ラプラスも自由の少ない生活を送っていた。こんなことが続くのならいっそポケモントレーナーに譲った方が自由になれるのではないか。そう思ったこともあった。けれど、それでも私のそばに居てくれたこの子をどうしても手離したくなくて。離れなくてよかったと心底思う。
 ラプラスの歌に呼応したのか、タマンタの群れやコイキングが跳ねて飛沫を上げる。そばを番のラブカスが通り過ぎて行くのも見えた。まるで私たちの門出を祝ってくれているみたいだね、なんて言ったらラプラスは笑うだろうか。それとも、そうだねと同意してくれるだろうか。
 すでに濃紺に染まった東の空には一番星が輝いている。慌ただしく移動し続けた疲れからか、眠る時間にはだいぶ早いというのに瞼が重たい。まだ起きていたい気もするけれど心地よい歌声が子守唄の効果をもたらして、私を眠りの世界へ誘った。先は長いのだから休養はできる時にしておけということなのかもしれない。私はおとなしくラプラスにもたれかかり、目を閉じた。

 どうかこの駆け落ちの末に待っているものが幸福でありますように。

さよならと笑う
20230620