今日って、雨が降る予報なんてあったっけ。
こちら側はまだ晴れているが、向こうの空が怪しく曇っている。はハンバーガーショップの店内で窓の外を眺め、今朝見たニュースの内容を思い出そうとしていた。けれど、天気予報の部分だけ抜け落ちてしまったかのように覚えがない。スマホで今日の天気を検索すると、午後からところにより雨との答えが返ってきた。ざっくりしすぎだ。
注文したハンバーガーを頬張っていると、近くの席に座る高校生ふたりの会話が聞こえてきた。「これから雨降るんだって」「らしいね。折り畳み持っててよかった」その言葉で思い出す。も折り畳み傘を持ち歩いているから、なんら心配することはないのだと。
食事を終えて店を後にする頃には上空を雲が埋め尽くし、その色は墨を一滴垂らしたような灰色をしていた。この様子だとそろそろ降るだろう。帰宅時間と被らなければいい。折り畳み傘があるとは言え服や靴が濡れるのは少し嫌だ。そう思いつつ、は会社へ戻って行った。
ささやかな願いとは裏腹に雨は降り出した。はじめこそ霧雨程度だったものの時間と共に雨粒は大きさを増していき、定時を迎えた頃には本降りとなっていた。後輩たちは窓を濡らす雨の跡にげんなりしながら帰っていくが、たち先輩社員はまだ仕事が残っている。降ってしまったものはしかたないけれど、せめて少しでも雨脚が弱まってくれれば。最初よりも妥協した願いを抱いて、は仕事を片付けた。
——希望通り雨は少し弱くなった。と言っても、傘を差さずに歩くのは抵抗があるくらいの強さではあるが。十九時半を過ぎた頃、ようやく退勤できたはオフィスのエントランスで溜め息を吐いていた。さあ帰ろうとカバンの中の折り畳み傘を取り出そうとしたが、そこにあったのはカバーだけだった。中身をひっくり返す勢いで探したけれど、やっぱりどこにも無い。なんで、と考えるより先に一昨日の出来事がの脳裏に浮かんだ。一昨日はお昼時に雨が降って、折り畳み傘を使って……そのあとは家に干したままだ。予報をしっかり見ていれば、忘れたりしなかっただろうに。はがっくりと項垂れる。
しかし、いつまでも止むのを待っているわけにはいかない。お腹も空いたし、何より疲れたから早く帰りたい。とりあえず駅までは徒歩五分ほどなので走っていくとして、最寄りに着いた時にどのくらいの強さになっているかが問題だ。最悪の場合はコンビニで傘を買うしかないだろう。タクシーを呼んで帰るのもありかもしれない。カバンを庇うようにして、は雨よけから飛び出した。足を踏み出す度、濡れたアスファルトがびしゃりと音を立てる。走る……と言ってもパンプスでは心許ない。少し駆けただけでこれはダメだと気づいたは、諦めて早歩きすることにした。滑って転んだりしたら目も当てられない。
晩秋の冷たい雨がぱらぱらとに降り注ぐ。昼間はそこそこ暖かかったのに、太陽が隠れると気温がぐっと下がる。もう冬はそこまで来ているらしい。吐く息はまだ白くならないけれど、じわじわと身体が冷えていくのが分かった。綺麗に巻かれていた髪は雨に濡れ、不恰好になっている。それでもあとは帰るだけだから気にする必要もない。
たった五分だけれど、思ったより濡れてしまった。駅にたどり着いたはハンカチで濡れた髪や頬、それから服を拭う。残業で疲れているのに雨まで降られて、つくづく最悪だ。
まもなく電車が到着するというアナウンスを聞きながら、はカバンからスマホを取り出した。スリープボタンを押せば、待ち受けにメッセージの通知が数件表示される。そういえば、ずっとスマホを見ていなかった。慌ててトーク画面を開くと同時に、電車がホームに停車する。疲れた顔のサラリーマンに続いて乗り込み、向かいのドア横に陣取った。
「さん、今日も残業?」十八時ごろに依央利からそんなメッセージが届いていたようだ。とはいえ、あちらもが執務室内で私用携帯を触れないことは知っているので、返信の催促は無い。その三十分後には、「今日の晩ご飯は煮込みハンバーグです! 寒いからあったまるものを作ったよ」との報告が続いていた。依央利の楽しそうな声色が文面からでも伝わってきそうだ。煮込みハンバーグ。その単語にのお腹がきゅうと小さな音を立てる。料理上手な依央利のことだ、きっと美味しいのだろう。
鬱々としていたの顔が明るくなった。さっそく冷えた指先で返事を入力する。「残業でした。今、電車に乗ったところ。早く煮込みハンバーグ食べたいな」すると、一分もしないうちに既読が付いた。ちょうどスマホを触っていたのかもしれない。
「お疲れ様です。けっこう雨降ってるけど大丈夫? 折り畳み傘は家に置きっぱなしだけど、傘持ってる?」さすが依央利だ、家事全般を担っていることもあり、家の中のことは大体把握しているのだろう。「忘れちゃった。でも最寄りからタクシーつかまえて帰るから大丈夫」そのメッセージを送ったあと、示し合わせたように電車が乗換駅に停まった。車内の乗客が続々と降りて行く。座席の端が空いたのを見つけ、はそこに腰掛けた。瞼を閉じれば、疲れからかすぐに意識が遠のいていく。
次に目を覚ましたのは、降りる一つ前の駅に着く旨がアナウンスされた時だった。まだ瞼が重い。はゆっくりと瞬きをしながらスマホを取り出す。時刻は二十時二十四分。そしてメッセージの通知が一件。依央利からだ。「僕が迎えに行きますよ! 着くのは二十時半ごろかな?」迎えに行く。その言葉には驚きで眠気が吹き飛んだ。依央利だって社会人だ。働いて、その上家事までして、誰より疲れているだろうに迎えにまで来るだなんて。依央利は、自身に課される負荷……つまりこき使われることを至上の喜びとしているし、それについて罪悪感を覚える必要はないと本人も言うけれど。でも、やはり良心があれば気が引けるもの。すぐさま返事を入力する。「ごめん、寝てた。迎えに来てもらわなくても大丈夫だよ。駅からタクシー乗り場は近いし、濡れないから」先ほどとは打って変わって、既読はすぐには付かない。もしかしたらもう家を出ていたりして。依央利ならあり得る。とにかくすれ違いにならないよう、まだ家にいるのか駅に向かっているのか確かめなければいけない。
返信を待っているうちに電車は緩やかに速度を落とし、最寄り駅へ到着した。は人もまばらになった車内を後にする。改札を出てから、周囲に依央利がいないか探してみるべきか。そんなことを考えつつエスカレーターに乗るとメッセージが届いた。「もう迎えに来ちゃった。改札出たとこに居るからね!」まあ、そうだろうと思ってたけど。は苦笑いして、「ありがとう。今着いたところ」と返した。
「さんっ!」
改札を抜けるなり、壁際に立っていた依央利が飼い主を見つけた犬のように元気よく手を振った。はそれに小さく振り返して、駆け寄る。
「ごめん。寒いのに来てくれたんだ」
「大丈夫ですよ。これも奉仕の一環ですから! はい、さんの傘。それとタオルに、上着も持ってきたよ」
忘れてしまった傘だけでなく、濡れたことも考慮してくれていたとは。さすがだ。は内心舌を巻く。
の両手が傘とカバンで塞がっているのをいいことに、依央利はタオルで髪を拭いてやった。
「髪、濡れちゃってますね」
「うん。会社から駅までの間にね」
「もっと早く言ってくれれば、会社まで迎えに行ったのに」
いくらなんでも、それは申し訳なさすぎる。
は曖昧に笑ってはぐらかす。ついでにちゃっかり上着も羽織らせた依央利は満足げに微笑んだ。
「帰りましょうか。晩ご飯が待ってるよ」
「うん。……ねえ、依央利くん。あのね、お願いがあるんだけど」
「なになに? なんでも聞きます!」
普段、頼みごとを積極的にしないが珍しく「お願いがある」なんて言い出したものだから、依央利は前のめりに食いついた。負荷を期待する瞳にまたもやは苦笑する。たぶん、依央利くんが期待しているようなものではないんだけど……。
「おんぶして帰ってほしいとか? あ、おんぶじゃなくてお姫様抱っこかな」
「ううん。相合傘してほしいの」
「えっ」
依央利はぱっと目を見開いて、固まった。予想の斜め上を行く答えだったからだ。からしてみれば、おんぶやお姫様抱っこで家まで連れ帰ってほしい、なんてお願いよりは現実的だと思うけれど。
依央利の白い頬がほの赤く染まる。狼狽えているのか、黒目がちな瞳が忙しなく視線を彷徨わせた。
「嫌だったかな」
「嫌とかじゃなくて、ただ……あんまり唐突で心の準備ができてなかったっていうか……」
「じゃあ相合傘してくれる?」
「喜んで!」
せっかく持って来てもらったの傘の出番は無さそうだ。
ふたりは肩を並べて駅を出る。ひんやりと湿った空気が頬を掠めた。雨脚は少し弱まったようにも見えるが、依然として止む気配はない。もしかすると明日も天気は回復しないのだろうか。
「そうだ、カバン持ちますよ」
「あ、うん。ありがとう」
それほど荷物も多くないし、辞退してもよかったが——ワガママを聞いてもらう以上、これくらいは依央利の希望通りにしよう。はおとなしくカバンを手渡す。カバンを持つのとは逆の手で、依央利は淡いグリーンの傘をさした。
「じゃあ、さんはこっちに……」
さあどうぞ、と左側にスペースを空けた依央利の横へ。そしては手持ち無沙汰な右腕を、依央利の左腕に絡ませた。いわゆる腕を組んでいる状態だ。
「今日のさん、なんだか甘えん坊」
「そうかも。困らせてない?」
「ぜーんぜん。むしろ大歓迎です!」
「よかった」
数枚の衣服越しでも熱が伝わるようだ。はそっと笑みを浮かべる。
通りすがりにちらりと目を遣ったタクシー乗り場には、タイミングのせいなのか一台も停まっていなかった。迎えに来てもらったのは正解だったのかもしれない。
「残業、ここ最近続いてますね」
「うん。もうすぐ繁忙期なのもあって、しばらくこんな感じかも」
「そっかー……仕方ないことだけど、さんの身体が心配だな」
「僕が代わってあげられたらいいのに」言葉だけを見れば、しばしば聞くセリフだ。しかし依央利の場合、本気で肩代わりしたいと思っているのだから笑えない。冗談で「代わってほしいな」と言うと本当に明日から出社しようとするのは知っているので、は「ありがとう。気持ちだけもらっておくね」と返す。
濡れた道路に街の灯りが反射して、ぼんやりと光っている。行き交う車のタイヤが水溜りを蹴散らしていくものだから、ふたりは極力歩道の内側へ寄っていった。
「でも、いつもより元気な方なんだ。依央利くんのご飯を食べてるからかな」
「えーっ、本当? 嬉しいなあ」
「おいしいし、栄養バランスも完璧だし。おかげで前より健康になったのかも」
朝ご飯を抜きがちだったのために朝は軽く食べられるものを用意してくれるし、夜は残業でへとへとになった身体にあたたかい食事はありがたい。何よりきちんと食べるようになって疲労感がマシになったような気もしている。
の言葉を受けて、依央利はくすぐったそうにはにかむ。
「さんにそう言ってもらえると、もっと頑張ろうって気合い入ります」
「今でも十分助かってるよ」
「嬉しいですけど、僕はまだ満足してないので! 奴隷の高みを目指すぞー」
奴隷、かあ。は心の中で呟く。
過去に何があったのかは知らないけれど、依央利が奴隷を自称したり、滅私・貢献・奉仕の精神に基づいて過度に尽くすことに理由があるのはも察していた。申し訳なさと心配とで遠慮をすると、かえって不満げになるのである程度はお願いしているけれど。でも、時折つらさを痩せ我慢しているようにも見える。
少しずつでも依央利の抱える何かを減らせたら。なんて、他人に干渉して良い方へ導こうなどと、思い上がりも甚だしいのだろうけれど。はそう考えている。
「じゃあ、さ。もうひとつお願いしてもいい?」
「もっちろん! 今日は良い日だなあ、さんにたくさん頼ってもらえて」
依央利は上機嫌な様子でを見つめた。でもやっぱり、きっと彼が想像しているような負荷ではない。
渡ろうとした信号がちょうど明滅し始めた。相合傘をしていて、しかもはパンプスを履いているのだ。走らせるのは危ないと判断した依央利は「やめときましょうか」と言って立ち止まった。告げるなら今だ。はやや緊張した面持ちで、しかし依央利が断ることなどほぼ無いと確信しているからこそ、そのお願いを口にした。
「お風呂、一緒に入ってよ。それで背中流してほしいな」
「え……ええっ!?」
動揺のあまり傘を差す依央利の手が震えた。そのせいで露先から雫がばらばらと弾け、ふたりの服に飛び散る。普段ならばハンカチを取り出しての服を拭いていただろうが、耳まで真っ赤にした今の依央利にその余裕はなかった。
「だめかな」
「いやっ、だめじゃないです! 全然だめじゃないですけど、その……本当にいいんですか?」
「いいからお願いしてるのに」
「あ、えっと……うう……」
依央利が真に望んでいるように馬車馬の如く働かせることは、にはできない。だからこうして少し恥ずかしいスキンシップをここぞとばかりにお願いしている。依央利にとっては命令してもらえて、にとってはスキンシップができて、良いこと尽くしだ。
とはいえ不意をついてくるその大胆さに依央利も驚くけれど、満更でないことをは知っている。
「一石二鳥っていうか、僕にとって得でしかないけど……こんなのでいいのかなあ」
「……いいんだよ。だって私たち、恋人同士なんだから」
主従関係じゃなくて、恋人同士。そう強調するかのように、は依央利の肩に頭を預けた。猫が甘えるみたいに擦り寄られて、依央利の身体がぴくりと跳ねる。
「さん、僕……今、すっごくキスしたい」
「うん」
「でも、外だから我慢します」
「えらいね。うん、家に着くまで我慢だよ」
そう言ってが顔を上げると、依央利は赤い頬のまま、ふにゃふにゃした笑みを浮かべていた。手綱を握るようなの言い方にときめいたらしい。恍惚と潤んだ瞳は射干玉のよう。
しかしも余裕なわけではない。耳がほのかに染まっているのは、何も寒さのせいだけではないのだ。
信号が、ぱっと青に変わる。見つめ合っていたふたりは弾かれたように前を向き、小さく笑うと横断歩道を渡って行った。
早く家に着かないかなあ。同じことを考えていたなんて、ふたりは思いもしなかった。
世界にふたりきり
20221214