年を重ねるほどに過去の記憶は薄れてゆく。けれどその中には何年経とうとも埋もれず色鮮やかに輝き続けるものがあり、人はそれを思い出と呼ぶ。
アシレーヌにも、寝ても覚めても忘れられない思い出がたくさんある。パートナーであると初めて顔を合わせた時の期待、苦戦を強いられたバトルで勝利した時の胸の熱さ、無事に島巡りを終えた時の充足感。どれもかけがえのないものだが、それらの中でもひときわ特別な思い出があった。その時のことを瞼の裏に思い浮かべるたび、アシレーヌの心は春の日差しを浴びた花のようにあたたかくなる。
その時はまだ1度目の進化も経験しておらず、も片手で数えられるくらいの年齢で、ふたりは信頼を深める途上にあった。
はトレーナーになるには幼かったので、その頃は一緒に遊びに出かけたりおやつを食べたりと、まるで姉妹のように過ごしていた。少しずつ心を開き合い、日ごとに打ち解けていく様子をの両親は穏やかに見守っていた。
アシマリとは眠る時も一緒で、の母親が読み聞かせてくれる童話が大好きだった。昼間は遊び回っているので大抵は数分もしないうちに眠りの世界に落ちてしまい、「めでたしめでたし」の部分まで聞き届けられずに、何度も同じお話を読んでほしいとせがんでは困らせていたものだ。中でもは人魚姫の童話を好んでいた。青く澄んだアローラの海の奥深く、己の目が届かない場所に、本当に人魚たちの住まうお城があるのだと信じて疑わなかった。美しくて優しい人魚の姉妹たちに憧れを抱いては「でも、私にはアシマリがいるもんね」と微笑んだ。アシマリはそれがなんだか誇らしくて、そのたびにえへんと胸を張ってみせた。
ある日のことだ。がもじもじしながら、お気に入りのクッションの上にアシマリを座らせた。それは貝殻を模したもので、すっかり人魚姫の世界に傾倒したのためにと父親が買い与えたのだ。クッションだけでなく、部屋の中は海をイメージした可愛らしい調度品に溢れている。
「あのね……これ、アシマリにあげる」
は少し照れくさそうにしながら、後ろ手に持っていたものをアシマリの目の前に掲げた。それは白いビーズを連ねて作ったネックレスだった。おそらく真珠のネックレスをイメージしているのだろうけれどフェイクパールにすら程遠く、塗料の白が安っぽい子ども用のアクセサリーだ。大人の目にはちゃちに見れるけれど、子どもにはとっておきの宝物に他ならない。
小さな紅葉の手のひらが、精一杯の恭しさでもってネックレスをアシマリの首にかける。は頬を紅潮させて「似合ってるよ!」とアシマリを抱きしめた。
「絵本の人魚姫は真珠でおしゃれしていたでしょ。だから、アシマリにもプレゼントしたかったの」
アシマリはの肩越しにドレッサーの鏡を見た。身体の色に白がよく映えている。
「アシマリは私のお姫様だもん」
愛おしむようにそっと頬擦りをしては言った。“お姫様”とは当時の彼女が知りうる語彙の中で最上級の褒め言葉だ。アシマリにとっても同じだった。つまりは一等大事に思ってくれているということ。だからアシマリの胸はきらきらした気持ちでいっぱいになって、けれど伝える言葉を持たないので、その代わりにを強く抱きしめ返した。
——そんな優しい思い出。
あの日から、アシマリとの絆はパートナーと呼ぶにふさわしい信頼へと昇華したのだ。
しかし2回の進化を経てアシレーヌになった彼女の首元に、かつての宝物は無い。あれは随分と前に壊れてしまった。文字どおり肌身離さず身につけて、バトルまでするようになったら摩耗は避けられない。ましてや子ども用の簡素な作りのものだ。ある時とうとう海で遊んでいる時に紐が切れてしまって、散らばるビーズを慌ててかき集めてもほとんどが波にさらわれてしまった。
ひどく落ち込んで、ご飯も喉を通らない彼女を抱きしめたは「いつか私が大人になったら、もっと素敵なネックレスをプレゼントするからね」と慰めてくれた。
苦い結末だったけれど、今ならばそれもいい思い出だと言える。ネックレスが壊れてもは変わらず彼女を大切にしてくれたし、絆の強さにも変わりはない。むしろ共に過ごす時間が長くなればなるほどに愛情は深まるばかりだ。
◇◇◇
夕日が水平線へ沈みゆくアローラの砂浜に、黒い影が長く伸びている。
指示を出す声とそれに応えるポケモンの鳴き声。それらが繰り返されたあと、バトルは弾ける水飛沫とともに決着がついた。アシレーヌのハイドロポンプが相手のイワンコに容赦なく放たれ、イワンコが目を回して倒れたのだ。「イワンコ!」トレーナーの少年がイワンコに駆け寄り、労わるようにその身体を撫でた。彼のカバンには傷ひとつついていない“しまめぐりのあかし”がぶら下がっている。おそらく島巡りを始めて日が浅い——つまりトレーナーになったばかりなのだろう。アシレーヌの後ろに控えるが「ちょっと大人げなかったかな……」と小さく呟く。それから少年のそばに寄るとしゃがみ込んで視線を合わせた。
「きみ、戦闘不能になったポケモンをどこへ連れて行けばいいかは知ってる?」
「はい。ポケモンセンターですよね?」
「うん、正解。その他にも、ポケモンセンターに行かなくても元気にする方法があってね……これをあげる」
は肩にかけたカバンの中からポーチを取り出し、げんきのかけらをひとつ、少年の手のひらに乗せた。
圧倒的な力差があると分かっていながら、それでも手加減をするのは勝負を挑んでくれた相手に失礼だからと、もアシレーヌも全力を出した。そのことに後悔はないけれどやはり多少の申し訳なさはある。そんな気持ちからのプレゼントなのだろう。少年は物珍しそうに、げんきのかけらをまじまじと見つめている。
「げんきのかけらって言うの。イワンコに使ってあげて」
「ありがとうございます!」
少年は力強く頷き、さっそくげんきのかけらを使ってイワンコを治療した。少しして意識を取り戻したイワンコはぷるぷると頭を振ったあと、しょんぼりしている少年の頬を舐めた。くすぐったそうにする彼の顔に笑顔が戻ったのを見届けたはほっと息をついて、腰を上げる。
「あの、お姉さん、ありがとうございました。バトルも、げんきのかけらも」
「いいの、気にしないで」
「それから……僕がもっと強くなったら、またバトルしてください!」
少年の瞳は夕影を反射する水面よりも輝いていた。向上心を薪にして闘志が燃えている。アシレーヌはそれに見覚えがある。が少年と同じくらいの歳だった頃もこんな目をしていた。初めてバトルに負けてしまった時、涙を流すより先に未来を見据えていた。ああ、懐かしい。アシレーヌは海原の色をしたまなこを細める。
「もちろん。次も負けないよ」
アシレーヌもの言葉にえへんと胸を張ってみせた。島巡りを終えたあともふたりは強さに胡座をかくことなく日々成長し続けている。何度挑まれたって勝ってみせるつもりだ。
すっかり元気になったイワンコを連れて少年は去って行った。とアシレーヌはその後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、どちらからともなく顔を見合わせて笑い、ビーチを歩き始めた。
「バトルを挑まれたの、久しぶりだね」
はくすりと笑ったあと「あの子、駆け出しのトレーナーだったね。なんだか昔のことを思い出しちゃった」と続ける。彼女も少年を通して、アシレーヌと同じく過去を愛おしんでいたのだ。まるで心が繋がっているみたい。嬉しくてアシレーヌはの腕に抱きついた。
「あなたとはずいぶん長い付き合いになるよね。ちっちゃい頃から、ずっと一緒にいるもんね……」
波が砂浜を撫でていく音に重なるようにして、頭上を通り過ぎていくキャモメの鳴き声が響く。“ちっちゃい頃”という言葉、橙色の光に縁取られたの輪郭、その後ろに見える水面を見つめながら、アシレーヌはデジャヴのようにふと思い出す。にもらったネックレスが壊れてしまった時も、こんなふうに夕日が沈みつつある海での出来事だった。夕日が目を焼くほどに輝くのは束の間で、海の向こうへ沈んでしまえば砂浜には夜の帳が下りるのだ。それがまるで諦めろと言われているみたいで胸が苦しくなった、その痛みが新鮮に蘇る。割り切ったつもりでいたけれど、あの出来事は思いのほかアシレーヌの心に傷を残しているらしい。
「昔は世界のどこかに、本当に人魚がいると思ってたなあ。毎晩飽きずに人魚姫の絵本を読んでもらって……あなたにネックレスをあげたこともあったね」
アシレーヌの心臓がぎくりと音を立てた。やはりもあの日のことを覚えているのだ。悪いことなどしていないのにほの暗い雲が立ち込めて、アシレーヌの心をたちまち覆い隠す。
せっかくプレゼントしてくれたネックレスを壊してしまって、ごめんなさい。あの日の情景を思い返すたび、そんな謝罪の言葉がアシレーヌの頭に浮かぶ。それを伝える術が無いことがひどく歯痒かった。
「あれは壊れちゃったけど……覚えてる? 大人になったらもっと素敵なネックレスをプレゼントするって、約束したの」
もちろんよ。アシレーヌは静かに首肯した。貝殻のクッションに突っ伏して泣く自分の背を撫でてくれた、の手のひらのあたたかさまで鮮明に覚えている。
はアシレーヌの白い頬を撫でたあと、カバンの中に手を入れた。差し出されたのは淡い水色をしたベロア生地のケースだ。
「遅くなってごめんね。あなたにふさわしいネックレスをようやく見つけたの」
ああ、はずっと約束を覚えていて、守ろうとしてくれていた。あれは幼少期の口約束だったし、あれからたくさんの出来事があった。より重要な記憶の中に埋もれてしまってもおかしくないので、仮に反故にされたとして責めるつもりは更々なかったけれど——こうして果たしてもらえると、それはそれでどうすればいいのか分からなくなる。
はケースの蓋を開け、アシレーヌに中身を見せてくれた。そこにはの言葉通りネックレスが横たわっている。シルバーのチェーンの先にはひと粒の真珠が繋がれていた。それはやわらかなミルク色をしていて、綻ぶように上品な光を湛えている。白いビーズとは似ても似つかない。アシレーヌがその美しさに目を奪われていると、が満足そうに笑う声がした。
「ふふ。つけてあげるね」
は細い指先でチェーンを摘み、アシレーヌの首にネックレスをつけた。少し緊張したような仕草にあの日を思い出し、アシレーヌの瞳が潤む。
「よく似合ってるよ」
同じ言葉、同じ表情。アシレーヌを抱きしめる腕の優しさだって。
あふれた涙が長いまつ毛を濡らして、砂浜に落ちるより先にの指先が拭った。「泣かないで」と慰める声色はどこまでも凪いでいる。は両手でアシレーヌの頬をそっと包んだ。
「いつまで経っても、あなたは私のお姫様だから」
そうね。わたしはだけのお姫様だわ。
当時の言葉をなぞるに倣い、アシレーヌも彼女を抱きしめる。苦い結末を迎えた過去はハッピーエンドまでの通過点に塗り替えられ、いつだって記憶の中から取り出して眺めたい思い出のひとつになった。あなたのおかげよ、ありがとう。の腕に抱かれながらアシレーヌは瞼を伏せる。
この先もずっと、一緒にたくさんの素敵な思い出を作れますように。穏やかに響く波の音に耳を澄ませ、アシレーヌはささやかにそう祈った。
ハッピー・エバーアフター
20250224
リーメント発売おめでとう。