スローステップ・メルト
 内部進学組の生徒ならば、月村手毬についての悪い噂を一度は聞いたことがあるはずだ。
 とりわけ囁かれているのは「素行不良」。——といっても、非行に走っているわけではない。所属していたユニットが解散した原因が彼女にあるだとか、誰某にひどいことを言っただとか、そんなものだ。
 その噂はプロデューサー科の方たちにも広まっているらしい。月村手毬は優秀だからプロデュースしたいと思う人はわんさと居る。だからこそ彼女の経歴や評判を調べて衝撃を受け、瞬く間に膾炙していったのだろう。

ちゃんは月村さんとは違うクラスだよね?」

「はい。私は2組で、彼女は1組ですので」

「なら、基本的に関わることは無さそうだね。この業界にやっかみは付き物だから、噂を鵜呑みにはしていないけれど……何かあったら遠慮なく相談して。もちろん、これ以外のことでもね!」

「心強いです。ありがとうございます、プロデューサー」

 無責任な噂に加担せず、事実を目にするまでは中立でいる。プロデューサーのこういうところが好ましいと思う。無闇やたらに敵を増やさないためにもこの立ち回りは正しいし、私も同意見だ。これまで私は月村手毬と同じクラスになったことはなく、人伝いでしか彼女についての事柄を知らない。だからこそ噂を肯定も否定もできないし、したくないのだ。
 ……とはいえ、友達が「面と向かってひどいことを言われた」と泣いているのを慰めたこともあり、噂に対して懐疑的だけれど月村手毬自身についてフラットな見方ができていない。漠然と、怖いと思っている。歌唱力のある彼女に歌が下手とか言われたら立ち直れないだろう。
 面倒ごとに巻き込まれるのも嫌なので、クラスが違ったのは幸運だろう。何かあったら味方になると言ってくれるプロデューサーにも恵まれて、レッスンやお仕事に打ち込む環境は出来上がっている。あとは私の努力次第。さあ、頑張らないと。
 ——なんて、意気込んでいたのだけれど。私は今、月村手毬とともにレッスン室に居る。

「ファルセットが下手。だから高音が汚い。こんな状態でライブするつもりなの?」

 誰か助けて。


◇◇◇


 事の発端は数十分前。自主練のためにレッスン室へやって来たのだが、まだ前の人が練習しているらしい。少し早く着きすぎてしまったようだ。かといって引き返してどこかで時間を潰すほどの余裕はないので、終わるまで入り口のところで待っていよう。そう思い、ドアの近くで待機していた。
 レッスン室の中から微かに漏れ聞こえてくるのは、高らかで伸び伸びとした美しい歌声。ああ、この声には聞き覚えがある。月村手毬だ。やっぱり歌が上手だな。これくらい声量があれば歌うのも気持ちいいのだろう。うっとりと聞き惚れていると、不意に歌声が止んだ。
 時計に気づいたのだろう、そろそろ切り上げてくる頃かもしれない。鉢合わせるとなんとなく気まずいから物陰に隠れていようかな。そう思って踵を返すより先にがちゃりとドアが開いて、思わず肩が跳ねた。
 つり目がちな深緑の瞳と視線がぶつかる。同じクラスになったことが無いから、こうして真正面から向き合ったのは初めてだ。噂に聞く彼女の人柄とは裏腹にその虹彩は透き通って、湖畔のように凪いでいる。

「プロデューサー……じゃ、ない」

 薄い唇からほんの少し残念そうに呟かれた言葉を拾い上げ、頭の中で咀嚼する。ああ、そうか、月村さんはプロデューサーが迎えに来たと思ってドアを開けたのか。合点がいった私はよそ行きの笑顔を浮かべてみせる。咄嗟に笑みを形作ってしまうのは癖のようなものだ。

「ええと、うん……月村さんのプロデューサーはいらっしゃってないみたい」

「……そう」

 月村さんはそっけなく返すと、またレッスン室に戻った。もう交代の時間のはずだけれど、もしかして気づいていない? しかし「私の番だから早く出て」と急かすのも憚られて(なんと言っても、怖いから)、そろりとレッスン室へ足を踏み入れた。ゆっくり準備をしているあいだに月村さんは退室するだろうし、まあいいか。
 ——しかし私がウォーミングアップの発声練習を終える頃になっても月村さんのプロデューサーは迎えに来ず、彼女もまたレッスン室の隅に座ったままだった。月村さんに聞かれていると思うとレッスンも緊張してしまうし、彼女だって他人のレッスン風景なんて見ていても楽しくないだろうから、出てほしいのだけれど……。ちらりと横目で見遣れば、月村さんは私を見つめていた。怖い。

「何?」

「いや……月村さんのプロデューサーさん、来ないなあって思って……」

「用事があるから迎えに来れないって、さっき連絡が来た」

「そうなんだ……?」

 じゃあ、寮に戻ったら……? と思いはしても口に出すことなどできるわけも無く。貴重なレッスンの時間をこのままお茶を濁して終わらせるなんてもったいないから、私は腹を括ってレッスンを始めた。私のプロデューサーが用意してくれた私のための曲。次のライブでお披露目するんだ。サビのファルセットがうまく出ないのでレッスンを重ねて、プロデューサーにも褒めてもらえるくらいの出来に仕上げたい。

「ねえ」

「ひゃっ!?」

「そんなに驚かなくてもいいでしょ……」

 いつのまにか真横に立っていた月村さんに呼びかけられて、思わず仰け反った。月村さんはそんな私の態度が気に食わなかったのか少しむっとした表情を浮かべる。

「ごめんね。ええと、どうしたの?」

「あなたの歌、さっきから聴くに耐えないんだけど」

「ええ……」

「それ楽譜だよね。ちょっと貸して」

 呆然とする私の手から楽譜を引ったくって、月村さんは目を通した。聞くに耐えない……つまりは下手だということか。たしかにこの歌は私には少々レベルが高くて、歌うのが難しいなと思ってはいたけれど。面と向かって下手だと言われたのはショック、だけれど、納得してしまったことの方がもっと悔しい。

「仮歌のデモ、ある?」

「あ、うん……スマホに入ってる、けど」

 イヤホンの片方を月村さんへ手渡し、スマホのミュージックプレイヤーで仮歌のデモを再生した。もう何度聴いただろう。移動中も出かける時もずっと聴いた馴染みのリズム。歌詞を諳んじることもできるのに、一番の見せ場であるサビがうまく歌えない。なんて情けないんだろう。

「……分かった。あなた、高音が苦手なんでしょ」

「え、うん。なんで分かったの?」

「さっきサビを歌ってる時の声、苦しそうだったし。このまま無理に声量を出そうとすると喉を痛める歌い方してる」

 まるでボーカルトレーナーかと思うほど、月村さんは私の弱点を当ててみせた。たしかに最近レッスンのあと、喉が痛いなと思っていたけれど。単純に喉を使ったからというだけでなく、無理をして高音を出していたせいなのか。

「ファルセットが下手。だから高音が汚い。こんな状態でライブするつもりなの?」

「そ……」

 そこまで言わなくても! ——とは言えなかった。図星だから。上達したいと願いつつも心の隅で、たとえ完璧でなくてもファンのみんなやプロデューサーは受け入れてくれると甘く考えている節があったから。そして、月村手毬の悪い噂について中立を装いながらも恐れている私はどこまでも臆病で、傷つくことを怖がっているから。反論して何倍にもなって返ってきたら立ち直れない。

「そう、だね。このままじゃ、ライブなんかできない」

「ならレッスンすれば?」

 言われなくても。
 挫けそうになる自分を悔しさを糧に奮い立たせて、とにかく苦手の克服をとレッスンを再開したのだけれど。

「身体の力を抜いて。声帯が閉じてたらうまく高音が出ないから」

「もっと頭に響かせるように声を出して」

「声を出してる最中に息を止めないで。この曲はアップテンポなんだから息は力強く吐ききって」

 月村さんからいくつものアドバイスを受け、息も絶え絶えになりながらサビを何度も繰り返し歌った。頭に響かせるとか抽象的すぎてできないんですけど、と心の中で悪態を吐きながらも反復するうちになんとなく、感覚が掴めてきたような気がする。

「……なんか、分かってきたかも」

「ようやく? まあ、まだ全然だけどね」

 鼻で笑ってくる月村さんはやっぱり、いけすかない。けれど、頼んでもいないのにここまで根気よく付き合ってくれるだなんて、もしかして。

「月村さんってさ……」

「何?」

「暇なの?」

「はあ!?」

 白い頬にさっと朱を差して、月村さんは眉を吊り上げた。まずい、触れてはいけないところに触れてしまったかもしれない。

「誰に向かって言ってるわけ? ああそっか、私が誰なのか知らないんだ?」

「嘘、冗談です。成績上位者の月村手毬さんが暇なわけがないです」

「そう。分かっているなら良いけど」

 ふふん、と胸を張る姿は少し可愛らしく見える。月村さんって私が思っているよりも普通の女の子なのかもしれない。この厳しいマンツーマンのレッスンで、僅かながら彼女の人となりを知れた気がする。
 ずっと停滞していたのにようやく一歩進むことができたのは、間違いなく月村さんのおかげ。気まぐれなのか知らないが手を差し伸べてくれたから。

「からかってごめんね。ありがとう、本当に感謝してるよ」

「……うん」

 月村さんは先ほどまでの殊勝な態度から一変、しおらしくもじもじしている。率直に気持ちを伝えられることに慣れていないのかもしれない。不器用なんだろうな、きっと。そう思うとなんだか親しみが湧いてくる。今朝までは彼女のことを孤高の歌姫みたいに思っていたのに。

「そうだ、よければ私のライブ観に来てよ。今度チケット渡すからさ」

「えっ……。ま、まあ、暇だったら行ってあげないことも、ないけど……」

「うん。スケジュールが空いてたらでいいから、来てくれたら嬉しいな」

 いつのまにか、ふたり肩を並べてレッスン室の床に座り込んでいた。汗ばんだTシャツの首元をぱたぱたと仰ぎながら、私は自分から口を開いていた。

「あの新曲、ラストにサプライズで歌うの」

「ふうん。なら歌いきれるように喉のケアをしっかりしないと」

「ケアかあ……。月村さんは何かやってるの?」

「当たり前でしょ。のど飴は当然、あと喉スプレーとか……部屋ではいつも加湿器つけたり、水分を多く取るようにしてる」

「なるほど、私も見習わなきゃなあ」

 取り止めのない話に花を咲かせていると、ポケットに入れていたスマホが鳴った。通知の名前を見てみるとプロデューサーからだ。「お疲れ様。今からレッスン室まで迎えに行くね」とのメッセージ。時計を見れば、そろそろ次の予約を入れている人がやってくる頃だ。

「もうすぐプロデューサーが迎えに来るみたい」

「……そうなんだ」

「今日、月村さんと話せてよかった。あ、そうだ。私まだ名乗ってなかったね?」

、でしょ。……知ってる」

 まさか月村さんが私の名前を、しかもフルネームで把握していただなんて。予想外だったけれどよくよく考えてみれば、クラスは一緒になったことがなくてもどこかで見かけたりしただろうから、驚くほどでもないか。

「またいつかレッスンが被ったら、月村さんのお世話になっちゃおうかな」

「は? 嫌だけど。言ったでしょ、私暇じゃないから」

「あはは。まあ、自分で言っておいて何だけど、お互い忙しくなるだろうし難しいかもね……」

 きっと一日だけの不思議な縁だ。ライブに来てくれたとして、それで仲が深まるかというとどうだろう。とはいえ人の縁なんてそんなものか。月村さんの人となりを知れただけ幸運なのかも知れない。

「……あのさ」

「ん?」

「私、」

 月村さんが何かを言いかけた瞬間、レッスン室の扉が開いた。入って来たのは私のプロデューサーと、あとは月村さんのプロデューサー。

ちゃん、と……月村さん?」

「お疲れ様です。月村さんとレッスンしていたんですよ」

「月村さん、何度連絡しても返事が無いと思ったらここに居たんですか」

「どこに居ようが私の勝手ですよね。今日はレッスンが終わったら自由時間だったんだし」

 月村さんとそのプロデューサーはなんだか言い合いになりそうな険悪な雰囲気だ。それを尻目に私のプロデューサーは気遣わしげな表情を浮かべ、そっと小声で耳打ちして来た。

「ふたりで居るからびっくりしたよ。何かあったの?」

「いえ……。月村さんにアドバイスをもらって、ボーカルレッスンをしていただけです。プロデューサーが心配するようなことは何も」

「そっか。それならよかった」

 少し不思議そうにしながらも、私から嘘を吐いているような様子が見て取れなかったからかプロデューサーは納得してくれたらしい。

「じゃあ次は、予定通りミーティングね。行きましょう」

「はい。……月村さん、またね」

 去り際に手を振ると、月村さんは大きな瞳をはたと見開いた。ついでに彼女のプロデューサーさんも面食らった表情をしている。一拍置いたあと、月村さんはぎこちない素振りで小さく手を振り返してくれた。

「うん。また……ね」


◇◇◇


「月村さんにレッスンつけてもらったって、どういう風の吹き回しだったの?」

 レッスン室から十分な距離を取ったあと、プロデューサーは改めて事のあらましを尋ねてきた。そりゃあ、気になるか。これまで奇跡的に関わり合いになったことすら無かったのに、いきなり接近していたのだから。悪い理由ではないとは理解してくれているらしく、彼女は興味津々といった様子で私を見据えている。

「月村さんが許せないほど、私の歌の出来栄えがひどかったみたいで。聴くに耐えないって言われてしまいました」

「あらら……」

「でも、アドバイスをしてくれて……最後まで根気強く付き添ってくれました。だから、やっぱり噂には尾鰭がついているみたいです」

 とはいえ、手厳しい物言いは噂通りでしたけどね。そう付け足すとプロデューサーは明るい声を上げて笑った。今頃は月村さんもどうして私と居たのか理由を聞かれているのかな。彼女はなんて答えるのだろう。「あまりにもひどい歌声を聞いて、我慢ならなかったから仕方なく」とか? いや、もっと厳しいことを言われているかも。顰めっ面の顔が思い浮かんで、つい口元が緩む。
 そうだ、次に会ったら連絡先を交換しないと。チケット、ダメ元でもいいから渡したい。今日の出来事が夢でないことを祈りつつ、無意識に舞い上がっている私は浮ついた足取りで事務所までの道を往くのだった。


スローステップ・メルト
20240613 Twitter投稿

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