頭が痛くて目が覚めた。
瞬きをするたび、こめかみのあたりが引き攣るような鋭い痛みが走って、顔を顰める。今、何時だろう……。枕元に腕を伸ばして目覚まし時計を手に取る。時刻は十三時を八分過ぎたところだった。せっかくの休日なのに、もう半日終わってるじゃない。時間を無駄に過ごした罪悪感がじわりと滲んだけれど、それも頭痛に遮られる。
とりあえず何か食べて、薬を飲まないと。上半身を起こすと痛みが増すので思わず「いたたた」と悲鳴が出てしまった。まるで頭を壁にでも打ち付けられているみたい。涙で霞む視界のまま顔を上げた。ベッドから少し離れた場所に置いてあるローテーブルの上にはチューハイの空き缶が五本ほど乗っている。それを認めた途端、昨夜の記憶が堰を切ったように蘇ってきた。そうだ、この頭の痛みは偏頭痛ではなくて二日酔いなんだ。そこまでアルコールに強くないくせして、チューハイの中でも度数の高いものをわざと選んで飲んだ。そして合間に水を口にしなかったのも自覚がある。あんなに飲まなきゃよかった。今更ながら後悔しつつ、足の裏を床につける。
人生は得てして、思うままにいかないものだ。
それを私はよく味わってきた。ピアノは好きだけど才能がついてこない。ポケモンは好きだけどバトルにおける戦術のセンスがない。仕事は好きだけど上司と馬が合わない。それらに比べれば小さいが、今回の二日酔いだってそう。気持ちよく酔っ払っておやすみ、で終わらせてはもらえなかった。かならずどこかが欠けてしまう。大なり小なり、そんな経験を繰り返すたび、自分が特別な人間ではないことを改めて思い知らされるのだ。
そして昨日は、社会人になってから五本の指に入るくらい嫌なことがあった。端的に言えば、先輩に手柄を横取りされたのだ。それを上司に抗議しても取り合ってもらえなかった。「そんなこといちいち気にしてたらやっていけないよ。彼も悪気はないんだろうし、許してあげなよ」——だと。悪気がなかったら余計にタチが悪いだろうがと言いたいのを抑えて、私は「はい」と言うのが精一杯だった。思い出したらまたお腹の底から怒りが湧いてきた。眉間に自然と力が入ったのか、頭の痛みが増す。
こんなことになるなら、ヤケ酒なんてするんじゃなかった。重たい身体を引きずり、冷蔵庫を開ける。中を覗き込むと湿った空気が顔を撫でた。ガラガラの庫内を見て思い出す。昨日はスーパーで氷とお酒しか買わなかったから、あとで買い物に行かないといけない。面倒くさい、こんなことなら適当にお惣菜でも買っておけばよかった。
——ほら、また上手くいかない。頭の片隅で、誰かの呆れたような声が聞こえた気がする。それを振り払うように、買ったまま食べていなかったモモンのみのゼリーを引っ掴んで、乱暴に冷蔵庫を閉めた。
食べ終えたのち、頭痛薬を水で流し込んだらベッドへ逆戻り。だらりと横たわって瞼を閉じた。こんな自堕落な休日を過ごすつもりはなかったんだけどな。意味がないとは知りながらも、痛みが軽減されることを期待してこめかみを親指の腹で揉む。早く効いてくれないかな……。そう思って溜息をついていると、頭上から涼しげな声が降ってきた。
「アシレーヌ」
名前を呼ぶと、返事をするようにもう一度短く鳴いてくれる。私のパートナーポケモン、アシレーヌ。うるさくしたから何事かと思って見に来てくれたんだろうか。彼女はたっぷりとしたまつ毛に縁取られた瞳に心配そうな色を浮かべ、こちらを覗き込んでいる。私は腕を伸ばしてその頬を撫でた。
「ちょっと頭が痛いだけだから、大丈夫。薬も飲んだし」
本当は早起きしてご飯もちゃんと作って、アシレーヌと朝の町を散歩したかった。休日だから一日中一緒に居られるのに、構ってあげられなくて申し訳ない。せめておやつのポケマメをあげようと思って起き上がろうとした私を、アシレーヌは首を振って制した。寝ていて、ということなんだろう。大好きなパートナーに気を遣わせてしまった。また自己嫌悪。
「ごめんね……」
満足にアシレーヌの相手すらできないなんて、情けない。具合が悪いのもあってか精神的に弱っているようで、目尻に涙が滲んだ。だけどこれ以上心配させたくないから、泣いているところを見られまいと腕で目を隠した。パジャマに涙が吸い込まれて、その部分だけぬるくなる。
しばらくそうしていると、不意に歌声が耳に届いた。アシレーヌが歌っているのだ。ガラスでできたベルを鳴らしているような——透き通った清流のせせらぎのような——いや、そんな言葉では言い表せない。まさしく筆舌に尽くしがたい、美しい歌声だ。泣くことも忘れ、顔を隠していた腕を退けて、傍らで歌うアシレーヌへと視線を向ける。それは彼女が上機嫌な時に何気なく口ずさむのとは違う。どこか、聞き手に訴えかけるような響きがあった。
しばらくして歌い終えたアシレーヌは、どうだった? と言いたげに首を傾げる。その仕草に既視感を憶えて、私はふと昔の出来事を思い出す。
あれはまだ彼女がオシャマリで、私も学校に通っていた頃。
私は当時ピアノを習っていて、発表会に向けた練習を重ねていた。難易度の高い曲を完璧に弾きたい、けれど技術がついてこない。そんなジレンマにいつしかピアノを見ることすら嫌で避けるようになり、それを怠けているのだと思った親に咎められ、何もかも投げ出したくなってしまっていた。
自室にこもって塞ぎ込む私を前に、オシャマリは急にぴょこぴょこと跳ねては笑顔を浮かべ、ダンスを踊り始めたのだ。はじめは意味が分からずきょとんと目を丸くするしかなかったが、やがて最後のポーズを決めたオシャマリが、どうだった? と言いたげに首を傾げるのを見てようやく理解した。——オシャマリは私を励まそうとしてくれたのだ。いつか聞いたことがあった。オシャマリはとても仲間思いで、トレーナーが落ち込んでいるとダンスをして元気づけるのだとか。
嬉しくって、胸がいっぱいになって。私はオシャマリをぎゅうっと抱きしめた。それから彼女のダンスに合わせてピアノを弾き、ふたりで飽きるまで遊んだ。技術なんてかなぐり捨てためちゃくちゃな演奏だったけれど、ピアノを弾いていた中であの時が一番楽しかった。
そう、オシャマリのおかげで私は演奏を楽しむ気持ちを思い出せたのだ。今ではたまに趣味としてピアノに触る程度なものの、オシャマリがいなければあのままピアノを遠ざけて、しまいには音楽ごと嫌っていたことだろう。
その時と同じ。アシレーヌは歌で私を励まそうとしてくれているのだ。愛しさが胸の奥底から湧き上がり、さっきまでとは違った意味合いで涙があふれてきた。
「アシレーヌ、ありがとう」
おいで、と腕を広げてみせれば、アシレーヌはとびきりの笑顔を浮かべて飛び込んできた。私の胸元や首筋に頬を擦り寄せてきゅうきゅうと喉を鳴らす姿は、歌っている時の神秘さはどこへやら。その甘えぶりはもうずっと昔の、アシマリだった頃を思い出させる。よしよしと撫でてあげると気持ち良さそうに目を伏せた。
「この世であなたが一番大好きよ。私の歌姫、アシレーヌ」
すべらかなアシレーヌの頬を両手で包む。美しく澄んだ海と同じ色をした瞳は穏やかに凪いで、私を見つめる。嬉しそうに鳴いたアシレーヌは桃色の鼻先を私の鼻先に、キスするみたくちょんとくっつけた。その仕草が可愛らしくて思わず笑みがこぼれる。
「ねえ。私、明日は早起きするから。久しぶりに海へ行こっか」
ベッドにふたり寝転んで、抱き合ったままそう話しかけると、アシレーヌはこくりと頷いてくれた。ゆったりとした波音と飛んでいくキャモメの鳴き声、そして潮風に乗ってどこまでも響くアシレーヌの歌。その情景はきっと、幼い頃に絵本で読んだ童話の人魚姫のようなのだろう。
でも、私たちは人魚姫のお話とは違う。アシレーヌを泡になんかさせない。いつまでもこうして、手と手を取り合って生きていく。
「ずっと一緒に居よう」
アシレーヌは私の足に鰭を絡めて、腕を背中に回すとぎゅうっと抱きしめてくれた。もちろん、と言うように。
中途半端で上手くいかないことばかりの私だけれど、アシレーヌとの約束を守り通すことだけは絶対の自信があるのだった。
手折れないもの
20230226