花香に酔う
 予算度外視の費用申請、修理費など頭に無いかのような設備の破損、次々に舞い込むトラブル。ユウカの悩みが尽きることはない。
 酷使しすぎた目が疲労を訴えているのが分かった。眉間に皺を寄せている時間が長かったから、こめかみのあたりが痛む気もする。
 今日はもうやめておこう。睨めっこしていたパソコンをシャットダウンし、ユウカはぐっと伸びをした。それから大きなため息を吐くと、荷物をまとめて部室の電気を消した。

 ガラス張りの廊下は日が暮れると宵闇に染まる。ビル群の煌々とした灯りたちの狭間、窓に反射する自分の顔があからさまに疲労の色を濃くしているのが分かり、ユウカはまたもやため息を吐いた。ここ最近の疲れが溜まっているのか、ゆっくりとお風呂に入っても睡眠時間を長く取っても、元気だと胸を張れるほど回復していないような気がする。おそらく肉体というより脳の疲労——中枢性疲労なのだろう。疲労回復に効くというビタミンB群、カルシウム、鉄分……それらを意識した食事をしなければ。
 その時、ユウカのスマホから通知音が鳴った。ジャケットの胸ポケットから取り出し、画面を見ればモモトークでからメッセージが送られて来ている。「そろそろ終わった頃かな? お疲れ様。休憩室にいるからね」なんて完璧なタイミングだろう。「今、もう部室を出たところ。休憩室に向かうわね」と返信してユウカは再び歩き出した。歩幅は心なしか先ほどより大きく、速度も上がっている。


◇◇◇


「あ、ユウカ。お疲れ様」

 休憩室に居たのはひとりだった。部屋の中にはチョコレートのような甘い香りがふんわりと漂っている。ユウカは迷わずの隣へと腰を下ろした。

「はあ……疲れたわ。どうしてこう、毎日面倒事ばかりなのかしら」

「ユウカはしっかり者だから、みんなに頼られちゃうものね。私には労うことしかできないけど……」

 テーブルの上にふたつ置かれたマグカップの中身はココアのようだ。は片方のマグカップをユウカに差し出す。がわざわざ作ってくれていたらしい。
 ふうふうと息を吹きかけたあと、ユウカはマグカップに口をつけた。舌に広がるまろやかな甘さを、その陰に隠れたカカオのほのかな苦味が引き立てている。じんわりと身体中に染み渡るような甘さに、ユウカの口元が緩んだ。それを見ていたが嬉しそうに微笑む。

「よかった、笑ってくれて」

「うん……。ようやく人心地がついたって感じだわ」

 ユウカはマグカップを手にしたまま、の肩にぽすんと寄りかかる。そんな彼女の頭をが優しく撫でた。早瀬ユウカという人物を表す言葉として、しっかり者——という単語では不十分だ。ミレニアムの予算を管理する数学の鬼才、セミナーの切れ者。気苦労の絶えない彼女が唯一弱みをさらけ出し、甘えることのできる相手がだった。なぜならふたりは恋人同士だから。
 お互いの吐息の音すら聞こえて来そうな距離。細い指先に髪を梳かれてユウカは目を細めた。

「……、香水変えた?」

「うん、そうなの。どう?」

「良い香りよ。なんかこう、安心するというか……」

「本当? これ、ライラックの香水なの」

 やわらかくて甘い、フローラルな匂い。もちろんライラックの花そのものだけを使用しているわけではないだろうけれど、心の安らぐ香りだとユウカは感じた。ライラックの香りにはリラックス効果があるという。嗅覚に限らず、五感に受ける刺激が心身に与える影響は大きい。はそれを理解しているからこそ、数ある香りの中でもライラックを選んだのだろう。

「自分で作ったんだよ」

「あら、そうだったの? 前にも自作してたわよね、あの時はシトラスだったかしら」

「うん、あれは簡単だったなあ。でもね、今回はなかなか苦戦してね……」

 ユウカを労り、穏やかだったは話しているうちに火がついたのか、饒舌に話し出した。

「もう、本当に大変だったんだ。ライラックってアンフルラージュ法じゃなきゃ香気成分を抽出できないから、1ヶ月以上、毎日花を摘んでは手ずから取り替えて……。このご時世に機械化のできない技術を使わざるを得ないだなんて。まあ、人間に都合良く進化してくれる植物なんて無いものね。だからいずれは、花の鮮度を段階分けおよび数値化したものをデータへ落とし込んで、AIが判断して花の入れ替えが自動でできるようにデータの蓄積をしていかないと……。いや、香気成分が油脂にどれだけ染み込んだかを測定して判断させる方が良さそう?」

 ミレニアムの生徒の大多数がそうであるように、やはりも知的好奇心に溢れているのだ。の専門は有機化学で、その延長線で香水作りにも手を出しているらしい。
 途中からほとんど独り言のようになっていたがユウカはの話に耳を傾ける。同じ理系とはいえ専門分野の違う相手の研究について聞くのはなかなか興味深い。

「……大変だったのね。でも、どうしてライラックの香水を作ろうと思ったの?」

「と言うと?」

「他の香りならそこまでの手間はかからないんでしょ? ライラック以外じゃダメだったのかしらと思って」

「そうだねえ……」

 は言い淀むと誤魔化すようにマグカップへと口をつけ、ココアを一口飲んだ。それからううんと唸ったあとに、先ほどまでの雄弁さが嘘みたいにおずおずと喋り出す。

「……ライラックの香りにはリラックス効果があるの、ユウカなら知ってるよね」

「ええ」

「疲れてるユウカに、私と居るあいだだけでもリラックスしてほしいなあって、思って……」

 視線はあちらこちらを行ったり来たり、もじもじと照れくさそうには言った。つまりは自分ではなくユウカのためだということだ。時間を費やし、手間をかけることすら厭わない。そしてはきっとユウカが問わなければ、ライラックの香水を作った理由を自分からは言い出さなかっただろう。

「ふうん? 優しいのね」

「……ちょっとからかってるでしょ」

「そんなことないわよ。素直に嬉しいと思ってる」

 ユウカは珍しく、いたずらっぽい笑みを浮かべての腕に抱きついた。意地を張ってつんと顔を背けるの、髪から覗く耳はほんのり赤く染まっている。
 嬉しく思っているのは本当だ。誰かが自分のために何かをしてくれるのは当たり前のことではない。けれど「ユウカのために」というの美しい行動原理の根底に、隠された少しの下心をユウカは感じ取っていた。
 ライラックの香水をユウカにプレゼントするのではなく、自身がつけるのはなぜか。きっとこうしてくっつくことを想定したのだろう。抱きしめて、香りが届くほどに近付いて。

「ありがと。と居る時が一番安心できるわ」

「……うん」

 しおらしくなったは、ようやくユウカの方を向いてくれた。まだ恥じらっているのか伏目がちな顔が可愛らしくて、ユウカはそっと唇を寄せる。ココアの甘い味がした。きっとも同じように甘いと感じているのだろう。

「ちょっとユウカさん? ここ休憩室だよ」

「そうね。でも、私たち以外に誰も居ないじゃない」

 ユウカはの背中に腕を回して抱きしめた。白い首筋から漂うライラックの香りをより強く感じる。いつのまにか頭痛もどこかへ飛んで行ってしまった。軽い体調不良くらいなら治ってしまう、これが愛の力ってやつなのかしら。ユウカらしくもない非論理的な仮説が頭に浮かんだ。愛の一言では片付けられないようなメカニズムがあるのだろうけれど、今は細かいことなどどうでもよかった。のあたたかな体温が衣服越しにも伝わってくる。気持ちの通じ合った相手と触れ合うことも、たしかストレスの解消に有効だったはずだ。
 抱きしめ返してくれるの腕の優しさに大きな幸福感を覚えながら、ユウカは瞼を閉じた。


花香に酔う
20240504