「来月になったら転校するんだって」
窓の外から見える、砂を被った校門からとぼとぼと出ていくひとりの女子生徒。その後ろ姿を目で追いながら私は言った。隣に居るノノミちゃんが小さく息を飲んだのが聞こえる。
「でもあの子は、ちゃんの……」
「……うん。幼馴染で、ずっと一緒にいたの。だけど……」
——もう砂漠化は止まらないよ。私たちの街も飲み込まれちゃう。学校だって何度移転したってキリがないじゃん。私、ここではまともに生きていけない。……ごめんね、。
きっとあの子は、本音を言い出せないままずっと抱えていたのだろう。私に転校の件を打ち明けた時、確かに悲しげであるのに何かから解放されたような面持ちにも見えた。アビドスを去る生徒はこれで何人目だろう。いつかまた元通りの学園生活を送れるのではないかと、根拠の無い希望を持ち続けるのは難しい。それでも私は、できることならあの子とこの学校で3年間を過ごし、卒業したかった。そんなのは私の一方的なわがままだって分かっているのに。
滲み出した涙が、堪えきれずにぽとりと落ちる。あの子と過ごしたこれまでの記憶と、あったかもしれない未来が頭の中で綯い交ぜになる。どうすれば叶ったのだろう。どうすれば引き止められたのだろう。
泣き出した私をノノミちゃんは優しく抱き寄せてくれた。華奢な肩口に顔を埋めると清潔な石鹸の香りがする。伝わってくる体温はあたたかく、私という存在をすべて受け止めてくれるかのようなのに、悲しみは押し寄せるばかり。
「大丈夫、ですよ。私はここに居ますから……。だから泣かないで、ちゃん」
ぐずぐずと鼻をすすりながらノノミちゃんの背に腕を回す。私は決してひとりじゃない。いつかこの学校がかつての賑々しさを取り戻すまで諦めたくない。この涙が枯れたら前を向くから、どうか今だけは。
「ずっと一緒ですよ」
そう言って涙を拭ってくれたノノミちゃんの手の温度を、私は一生忘れないだろう。
居酒屋でのバイトを終えて家に着いた頃には、22時を過ぎていた。疲れたし、眠いし、髪がタバコ臭いし、お腹はぺこぺこ。ご飯はコンビニで買ってきたおにぎりだ。お風呂に入るのが一番めんどくさい。でも、砂埃と汗で汚れてるままベッドに入るなんてありえないから入らなきゃ。
しょぼしょぼする目を擦りながら制服を脱いでいると、机に置いていたスマホから通知音が鳴った。モモトークだ。こんな時間にいったい誰だろうと画面を覗き込むと、そこに表示されていたのは先生の名前。「明日はシャーレの当番、よろしくね」だと。げ、と声が出た。当番が入っていることをすっかり忘れていたのだ。この疲れは明日にまで持ち越すだろうに、わざわざアビドスからはるばるD.U.まで行かなきゃならない。アビドス中央線は砂嵐の程度によっては遅延したり、運行本数が減ったりして大変なのに。深い深い溜め息を吐きながらモモトークを開く。先生に「はい! こちらこそよろしくお願いします!」と適当な返事をしてスマホを放った。さっさとおにぎり食べてお風呂入って、寝よう。目覚まし時計、いつもより早くセットしないと。そう考えつつ、コンビニのビニール袋へと手を伸ばした。
◇◇◇
シャーレの当番を喜ぶ生徒は少なくないと聞いている。
先生を慕っていたり、中には好意を持っている子が多いからだ。多忙な先生は職務の一環で各自治区へと足を運ぶこともあるけれど、そのたびに顔を合わせられるとは限られない。だから一対一で接することのできる貴重な機会が嬉しいのだという。
そんなに当番が好きなら譲ってあげたいくらいだ。書類の仕分けをしながらひっそりあくびをした。数時間の休息程度では癒えなかった疲労が眠気という形で現れている。
「、眠いの?」
あくびをしていたところを先生に見られていたらしい。目尻に滲む涙を拭って頷く。
「昨日、遅くまでバイトだったんです。その疲れが尾を引いちゃってるみたいで……。すみません、仕事中にあくびなんて」
「いいんだよ、そんなこと。はバイトも勉強も、シャーレの当番も頑張っててえらいよ」
先生は「そうだ、ちょっと待ってて!」と言って腰を上げると、備え付けの簡易キッチンへ向かった。その後ろ姿を視線だけで追う。先生は戸棚からマグカップをふたつ取り出した。どうやらコーヒーを入れてくれるらしい。
きっと休憩にしようとか言い出すのだろう。「ちょうど休みたいと思ってたところなんだよね」なんて取ってつけた嘘をついて、私に気負わせないよう笑うんだ。
「お待たせ」
先生はお盆の上にふたつのマグカップと、個包装のチョコレートを数粒乗せて戻ってきた。コーヒーの苦い香りが鼻をくすぐる。先生は私の対面ではなく隣に座ってきた。
「すみません、先生。気を使わせてしまって」
「ううん、私もちょうど休みたいと思ってたところだから」
ほら、やっぱり。予想通りの台詞に苦笑いも出ない。
湯気を立てるマグカップに口をつけた。砂糖もミルクも入っていないブラックコーヒー。味蕾を刺激する苦味は耐え難いものだけれど、眠気を覚ますにはうってつけだ。だけど……やっぱり無理。口直しにチョコレートをひとつ摘んで頬張った。まろやかな甘さが苦味を上書きするように、舌へじわじわと広がっていく。
「……先生?」
「はは……あ、ごめん。表情がコロコロ変わるが可愛くて、つい」
先生は“大人”だからブラックコーヒーも難なく飲めるらしい。顔を顰めたり、すかさずチョコレートに手を伸ばしたりしない。だから“子ども”の私を見て微笑ましそうに笑う。
「少しはリラックスできたかな」
「はい。おかげさまで眠気も吹き飛びました。もっと仕事に集中できそうです」
「それはよかった。だけど……」
先生はマグカップを置くと、私の肩を抱き寄せた。首の後ろのあたりが粟立つ。先生はそのまま、もたれかかるような体勢になった私の頭を撫でた。
「はすぐ頑張りすぎるから、無理はしないでほしい」
大きな手のひらが私の髪を梳く。愛しい恋人にするみたいに慈しむ仕草だ。だけど、ああ、私にとってはおぞましくて仕方ない。それでも甘んじて受け入れるしかないのだ。
だって私は先生の恋人なのだから。
「私は全然、平気です。バイトは少し大変ですけどアビドスのためですし、セリカちゃんも頑張ってるし。それに……シャーレの当番は先生と居られる貴重な時間でもありますから」
「……」
こういう言葉が欲しかったんでしょう。健気で優しい女の子が好きなんでしょう。この男が好むものや望むものなど手に取るように分かる。案の定、感極まったように抱きしめられて背筋が強張った。
「そう言ってくれて嬉しいよ。でも、本当に身体を大事にしてね」
「……はい。ありがとう、ございます」
早く離れてほしいのに、私を包む腕は緩む素振りを見せない。嫌悪感で脳みそが揺れる心地だ。耐えかねて瞼を閉じる。暗くなった視界に浮かぶのは大好きな人の姿。春に咲くお花みたいに優しくて、あたたかい女の子。
私は先生のことなんか、これっぽっちも好きじゃない。
私が好きなのは十六夜ノノミちゃん。ノノミちゃんが好きだからこそ、先生と恋人にならざるを得なかったのだ。
だってノノミちゃんはシャーレの当番に喜んで立候補するくらい先生に恋をしている。先生がアビドスを訪問すると聞いた日には朝から上機嫌だし、いろいろと気を回してアプローチしたり。あんなノノミちゃんは見たことがなかった。先生のことを私に話す時の愛くるしい表情は、どんなに鈍い人でも恋をしているのだと分かるはずだ。そして私はそのことを素直に喜び、応援するなどできなかった。どす黒い感情が胸の中を渦巻いて、押し潰されそうなくらいに苦しくなった。
どうして、ついこのあいだキヴォトスにやって来たばかりの人間にノノミちゃんを取られなくちゃいけないの? 私たちは苦楽を共にしてきたのに。出口の見えない暗闇の中で手と手を取り合って生きてきたのに! それを、戦うこともできない、銃弾がひとつ当たったくらいで命さえ危ぶまれるような軟弱な男が。何もかもを大団円におさめて、みんなから、ノノミちゃんから愛されやがって。
——そうだ。私にとってもっとも恐ろしいことは、この恋が叶わなくなることではない。ノノミちゃんがあの男の恋人になってしまうこと。どうすればいい。どうすれば、最悪の結末を避けることができる。考えて考えて、ようやく思い至った。私があの男の恋人になればいい。そうすればノノミちゃんがあの男のものになることは、少なくとも私が恋人であるうちはあり得ないだろう。
なんて冷酷で自己中心な計略だろう。それでも、ノノミちゃんとあの男が寄り添う未来を私は受け入れられないから。決心してしまえば簡単だった。あの男が好みそうな女の子の性格や仕草をリサーチして、魅力的に思われるよう振る舞った。シャーレの当番が巡ってくるたびにあの男の態度があからさまに変わっていくのが分かって、こちらから言外に好意をほのめかせば容易に手を伸ばしてきた。あとは「照れくさいから」と関係を他言しないよう念押しすれば、すべてが計算通り。月に幾度か、吐き気を堪えながら恋人ごっこを繰り返すだけ。
「先生、あの、そろそろ……。コーヒーが冷めてしまいます」
「あっ、そうだね。ごめんごめん」
先生は名残惜しそうに私から離れた。休憩を取ったら、さっさと仕事を片付けてアビドスに帰りたい。他人から見れば砂塵に飲み込まれつつある衰退した街でも、私にとってはただひとつの帰る場所だから。
……ノノミちゃんに会いたい。「シャーレの当番、お疲れ様でした」と言って頭を撫でてほしい。私の髪の流れに沿って指を滑らせ、「やっぱりアビドスに居ると髪に砂埃がついちゃいますね」と苦笑いして、ブラシで優しく解いてくれるんだ。ありがとうと伝えれば「どういたしまして〜」と破顔して私を抱きしめてくれて、……。
唇からこぼれそうになる溜め息を、コーヒーと共に飲み込んだ。
◇◇◇
「ちゃん……眠たそうですね?」
ノノミちゃんが、あくびを連発する私の顔を覗き込んで言った。
連日のバイトとシャーレの当番で肉体的にも精神的にも疲れが溜まっているのは自分でも感じていた。シャーレの当番はしばらく回ってこないからともかく、バイトの方はそろそろまとまったお休みを取らないと身体を壊しそうだ。セリカちゃんを見習ってもっと頑張りたいのに、人によって限界のボーダーラインが異なるのは変えられない事実であり、受け入れるしかない。
「ちょっと疲れちゃって。昨日バイトでトラブルが起こって、家に着いたの23時前だったから……」
「あらあら……大変でしたね。ちゃんはいつも頑張っていて、えらいです」
その言葉だけで気力が湧いてくる心地だ。先生にも似たようなことを言われたはずなのに嬉しさは段違い。思わず口元が綻ぶ。
「……ありがと」
「ん〜……そうだ、みんなが来るまで少し休むのはどうですか? 私、膝枕してあげちゃいます!」
え、と困惑しているあいだにノノミちゃんは椅子をいくつか並べて、その一番端に腰掛けると太ももを叩いて寝転がるよう促してきた。戸惑いながらも願ってもないシチュエーションに内心喜びつつ、上履きを脱いで椅子の上に寝っ転がる。頭だけとはいえ、重くないかな。遠慮気味にそっと頭をノノミちゃんの太ももの上に乗せると、優しい手に髪を撫でられた。
「ちゃんをこうして甘やかすの、なんだか久しぶりですね」
「そうだね……。最近は、ゆっくりできる時間が少なくなっちゃって」
やらなければいけないことにプラスして、先生の恋人としてデートやモモトークでの雑談や電話など、費やさなければならない時間も増えた。先生も忙しいからそれぞれ長時間には及ばないが、塵も積もればというやつだ。先生にとっては息抜きになっても、私にとっては苦痛に耐える時間。疲労感は倍以上にも膨れ上がるもの。
ノノミちゃんのあたたかい手のひらがさらに眠気を誘う。もう一度あくびをすると、頭上からささやかな笑い声が降ってきた。
「寝ちゃってもいいですよ〜。みんなが来たら起こしてあげますから」
「うん……」
瞼が重くなる。耳に届く音が遠くなる。ただひとつ、感じるのはノノミちゃんの存在だけ。
まるでノノミちゃんに守られているみたい。幸せで仕方ないのに、胸の裏側を針でちくちくと突かれているような痛みも同時に感じる。ノノミちゃんを裏切っている罪悪感は、絶対に私を見逃してくれない。楽しい時や幸せな時も私を苛む。これから先、私は死ぬまでずっとこんな思いをひとりで抱えて生きていかなければならない。当然の報いだ。自分が最低な人間だというのは自分が一番分かっている。ノノミちゃんの恋心も私自身の恋心も踏み躙って、先生の心を弄んで。そのくせ何も知らないような顔でふたりに笑いかけている。いずれ私には相応の天罰が下ることだろう。
でも、それでも、私はノノミちゃんを誰にも取られたくない。そのためだったらなんでもできる。
こんなに大好きなの。だからお願い、取らないでよ。
もはや誰に懇願しているのかすら分からない。涙を瞼の裏に閉じ込めて、寝返りを打つふりで顔を隠した。
愛は棘のように
20240320
20240321 加筆