きみのための日月星
 私の目の前には、白いお皿の上に乗ったふわふわのホットケーキがある。
 4、5センチはありそうな厚さで、アローラのライチュウのようにこんがりとした焼き色がムラ無くついている。それが3枚も重ねられた立派な姿につやつや光るシロップがたっぷりかけられていて、私に食べられるのを今か今かと待っているみたいだ。
 たまらずカトラリーを手に、ナイフを差し込んだ。抵抗をほぼ感じないのはいかに柔らかいかの証拠。頬張ったらどれほどふわふわなのだろうと期待が膨らむ。ひと口サイズに切ったホットケーキをフォークで突き刺して、さあいよいよ食べようとした時——目が覚めた。


 外で鳴くムックルの声を聞きながら、天井を呆然と数十秒眺めたところで気がついた。ああ、あれは夢だったのか。しかとフォークを握っていたはずの左手は空っぽだった。私のホットケーキ……3段重ねの、ふわふわホットケーキ……。まるで数日前から行こうと決めていたお店が臨時休業だった時のような、行き場の無い落胆を感じる。
 大きな溜め息を吐いて寝返りを打つ。二度寝してしまおうかと思った時、ふと影が差して顔を上げた。

「おはよう、デオキシス」

 先に起きてたんだね、と言うとデオキシスはこくりと頷いた。それじゃあ私も二度寝するわけにはいかないな。気合を入れて起き上がる。くう、と情けない声を出すぺこぺこのお腹は未練がましくもホットケーキを所望していた。またもや溜め息を吐くと、デオキシスが不思議そうに首を傾げる。

「あのね、夢を見たの。こーんなにおっきなホットケーキが3枚も重ねられててね、シロップもたくさんかかってて……」

 手でおおよその大きさを示してみると、デオキシスは目を見張って興味深そうな視線を向けてきた。

「でもね、食べる直前で夢が覚めちゃったんだ……」

 どうせ夢だから本当に食べられるわけではないけれど、だからこそ気分だけでも味わいたかったというか……。とにかくがっかりしているのだと伝えると、デオキシスは私の気持ちがよく理解できないのか固まっていた。まあ、当然だろう。

「もう、ホットケーキ食べたくなっちゃったよー。今日の朝ご飯はホットケーキにしようか」

 とりあえず準備をしなければ。私はぐっと伸びをしてからベッドを降りた。デオキシスは後ろをすいすいと着いてくる。

 おそらく私の抱いている細かな感情の機微きびは、デオキシスには理解し難いものなのだと思う。たかだか夢の内容に一喜一憂するのも、現実の行動に影響を受けるのも。非合理極まりないという自覚は私にもある。けれど、人間はそういうふうにできているのだから仕方ない。人間という生き物は、有象無象になんらかの意味を見出そうとする。だから夢占いなんてものもこの世に存在するのだ。

 それに私はたとえデオキシスが理解できなくとも、詳細に心の内を話すことに意味があると思っている。私という存在の思考回路を解き明かせなくとも、“そういう奴”なのだと認識するだけで構わないから、デオキシスの記憶に留めておいてくれたらそれだけでいいと思うのだ。互いの全てを完璧に把握することだけが信頼ではないはずだから。


◇◇◇


 焼いてみたホットケーキは、夢に出て来たものとは似ても似つかない平凡な出来だった。とはいえ、失敗しなかっただけよしとしよう。
 ふたつのお皿に2枚ずつホットケーキを乗せる。ほわほわと甘い香りの湯気が鼻腔をくすぐり、夢で見た光景が頭の中にうっすらと蘇った。あのふわふわには程遠いけれど、でも、これはこれで良い気もしてきた。シロップだっていつもより少し良い、ペロッパフ印のものをかけちゃおう。
 リビングでお行儀よく椅子に座って待っていてくれたデオキシスの前にお皿を置く。初めて間近にしたホットケーキをさまざまな角度から観察する姿を可愛いなと思いつつ、私もデオキシスの向かいに腰掛けた。紅茶とカトラリーセットも用意ができた。ちょっと優雅な朝ご飯の始まりだ。

「ナイフとフォークはね、こうやって使うの」

 左手にフォーク、右手にナイフを持ち掲げてお手本を見せる。デオキシスは腕の触手を人の手と同じ形に変え、私の手をまじまじと眺めたあとで器用に真似をしてみせた。どう? とこちらを見つめるデオキシスの表情はなんだか得意げだ。思わず口元が緩む。

「うん、すごく上手。そしたら次は……」

 私が手元を動かすとデオキシスもそれに倣ってホットケーキを切り分ける。頬張れば、あれほど渇望した味が舌の上に広がった。食べたい時に食べたいものを口にすると満足感が倍になる気がする。シロップの染みたホットケーキってどうしてこんなにおいしいんだろう。
対面のデオキシスも黙々とホットケーキを食べ進めている。気に入ってもらえたようでよかった。安堵しつつティーカップに手を伸ばす。

 和やかな朝食の時間を過ごしながら何気なく視線を向けたテレビでは、最新鋭の投影機を導入したことで話題を呼んでいるのだという、プラネタリウムについて特集していた。星空や宇宙のみならず、匂いまでも再現ができているらしい。

「宇宙ってね、ズリのみに似た匂いがするんですよ」

 有名な宇宙飛行士がインタビューに答え、そんな話をしていた。よりにもよって、なんでズリのみ? テレビの内容に気を取られて、ついホットケーキを食べる手が止まる。
 なんでも、天の川の中心にはギ酸エチルと呼ばれる有機化合物が存在し、それが宇宙を漂っているらしい。そのギ酸エチルは身近なものだとズリのみに多く含まれていて、だから「宇宙はズリのみのような匂いがする」とその宇宙飛行士は評しているのだ。
それを受け、調香師が限りなく近い香りにブレンドしたアロマをプログラムの上映中に焚き、観客に嗅覚でも宇宙を味わってもらおうという試みのようだ。

「不思議だね、宇宙って」

 ズリのみみたいな匂いがするだなんて、有史以来誰も想像だにしなかっただろう。宇宙へと飛び立った者だけが知ることのできる事実。宇宙旅行なるものが庶民にまで浸透するのは生きているうちには無理そうだから、本当にズリのみの香りがするのか私が確かめることは叶わない。
 この世は未知のものだらけだ。

「ねえ、デオキシスは宇宙から来たんでしょう? 宇宙ってどんなところだったの?」

 私がぼんやりテレビを観ているあいだにもホットケーキを平らげたデオキシスは、カトラリーを置いて少し首を傾げた。質問に答えるべく考えているのかもしれない。でも私はポケモンの言葉が分からないし、到底ジェスチャーで伝えられる内容ではないから答えるのは難しいだろう。そう思うと、なんだか意地の悪い質問をしてしまったかもしれない。

「ごめんね、難しいことを聞いて。テレビ観てたらちょっと気になったの」

 少し冷めてしまったホットケーキをひと切れかじりながら、小学生くらいの少年が「プラネタリウムで天の川見るの楽しみ!」と元気よくインタビューに答えているのを眺める。
 何かを擬似的に経験をすることのできる技術が近年目覚ましく発達していることは私も理解している。しかし私は実際にこの五感で確かめられたらいいのにと、幼稚な理想が捨て切れない。叶わないのは重々承知しているのに。
 でも宇宙は——デオキシスのルーツなのだ。目にしてみたいと思うのは、パートナーとして自然ではないだろうか。

「……けど、考えても仕方ないよね」

 物思いに耽る私のことなど露知らず、食べないならちょうだいと言うようにテーブルへと身を乗り出してきたデオキシスから自分のお皿を守る。よっぽどホットケーキが気に入ったらしい。ともすれば地球外生命体と呼んでも差し支えないデオキシスがこんなに人間くさくなるなんて。私の影響なのかと思うとちょっぴり申し訳ないけれど、悪い気はしない。

「あーあ。夢の中でも良いから、宇宙に行ってみたいなあ」

 それはきっと、フィクションの影響を多分に受けた宇宙なのだろうけれど。それでも楽しいはずだ。地上からでは点にしか見えない星たちの鮮烈な輝きや、太陽系惑星の大きさに圧倒されてみたい。たとえ、かのふわふわホットケーキと同じく、目を覚ませば泡沫のように消える夢だとしても。
 デオキシスは何かを言いたげに私の目をじっと見てきた。この子は宇宙を知っているのに語れはしない。エスパータイプなのだから、たとえば私の心の中に直接語りかけたりできたらいいのにな。……なんて、ポケモンを人間にとって都合が良い存在であれと思うのはよろしくないか。
 最後のひと口を咀嚼し、紅茶で流し込む。未練はこれで解消された。ホットケーキを夢に見ることはこの先しばらく無いだろう。

「さて、片付けしたらお散歩にでも行こうか」

 私が空のお皿を持って立ち上がると、デオキシスもティーセットを抱えてキッチンまで着いてきてくれた。


◇◇◇


 いつもと変わらない平穏な一日が終わる頃、寝支度を済ませてベッドに潜る。枕に頭を乗せると、すっかり忘れていた朝の出来事がデジャヴのように蘇った。
 ぼんやり天井を仰ぐ私を横目に、デオキシスが掛け布団を捲ってベッドに乗ってくる。もっとそっちに寄ってと言わんばかりにぐいぐい押され、「ちょっとー」と軽口を叩きつつ壁際にずれた。いつからだろう、同じベッドで眠るようになったのは。モンスターボールの中の方が快適だろうに、狭いシングルベッドでわざわざ一緒に寝てくれる。その行為が示す親愛の度合いを感じてむず痒い心地だ。

「……ねえ、デオキシス」

 呼びかければ、しっかりと肩まで布団を被ったデオキシスが身体ごとこちらへ向いた。

「宇宙の夢、見られるかなあ」

 またその話か、と呆れられてしまうかと思ったけれど。デオキシスはこくりと小さく頷いてくれた。今のデオキシスはなんだか優しい目をしている気がする。つい笑みがこぼれた。

「ふふ、ありがとう。……おやすみなさい、デオキシスも良い夢見てね」

 挨拶を交わし、部屋の電気を消した。フェードアウトするようにゆっくりと闇が降りてくる。しんと静まり返った空間の中、私は瞼を閉じて宇宙を思い浮かべた。星の明るさってたしか、等が小さいほど強いんだっけ。太陽系惑星の並びは……宇宙はズリのみの匂いがして……。
 記憶の奥から宇宙にまつわる知識を引っ張り出していくうちに、私は眠りに落ちていった。



 ——気がつくと、私は知らない場所に立っていた。周囲に建物は全く無く、足元はごつごつとしていて雑草のひとつも生えていない。見慣れない場所だ。あたりを見回してみる。濃紺の空には星々が目を焼くほど鮮烈に輝き、地平線の向こうから地球が半分ほど頭を出している。

 ……ここは知らない場所どころか、地球上ですらない。そう認識した途端に「これは夢である」と閃いた。明晰夢というものだろうか。現実であれば、装備も無しに宇宙へ放り出されたら——そもそもそんな事態はあり得ないけれど——こんなにのんびりと状況を整理するまでもなく命を落としているだろう。これは夢だ。私の記憶や知識をかき集めて作られた、似て非なる宇宙。
 何をしよう、どうしたらいい? ここはどこなのだろう。地球と近そうだから月かな、それとも夢の中だから架空の惑星? とりあえず近くを見て回ろうか。わくわく弾む胸もそのままに探検しようとしていると、上空からふわりとデオキシスが降りてきた。

「デオキシス!」

 まさか夢の中でも会えるだなんて。嬉しくて駆け寄るも、舗装されていない地面に足を取られてふらつく。痛みに対する恐怖よりも先に、衝撃で夢から覚めてしまうのではと肝を冷やしたその時。デオキシスが腕を伸ばし、私の身体を受け止めてくれた。そのまま、そうっと立たされる。おそるおそる目を開けると、心配そうに私の顔を覗き込むデオキシスが居た。

「平気だよ。ありがとう」

 もう走ったりしないから、大丈夫。そう告げたけれどデオキシスは私のことが気がかりなのか手を繋いできた。もしかして、珍しいものを見つけたらはしゃぎそうで危なっかしいとか思われているのかもしれない。私はおとなしく手を握り返した。

「じゃあ、エスコートしてくださる?」

 デオキシスの方が宇宙についてよく理解しているであろうことは明白だ。おどけてみせるとデオキシスは自信満々に頷いてくれた。そして私の手を取ったまま、すうっと浮かび上がる。私までつられて身体が浮くけれど、デオキシスの腕力で無理やりに引っ張られているわけではなさそうだ。どういう原理なのかとあれこれ考えを巡らせてみたものの、そもそも夢の内容に理屈を求めること自体がナンセンスだ、と思い直す。デオキシスのエスパーパワーとか、なんとか……そういうことにしておこう。
 足が地を離れて、先ほどまで居た場所がどんどん遠ざかる。浮遊感に恐れを抱かないと言ったら嘘になるが、デオキシスが手を繋いでいるから怖くない。

「すごいすごい! ねえ、あれって金星かな?」

 遠くに一際眩しく輝く黄金色を見つけ、指差す。地球から見ても明星と呼ばれるほど目立つのだから、同じ宇宙空間に居ればこんなに眩しいのも当たり前か。感心しながら眺めていると、ふと視線を感じた。隣を見ればデオキシスが微笑ましそうな眼差しを私に向けている。己の行動を振り返ってみると、目についたものすべてに興味を示して、デオキシスを振り回して……まるでテーマパークで大喜びする子どもみたいだ。少し恥ずかしくなってしまって、私は口を閉じた。

「……わっ!」

 しばらく押し黙ったまま、星々の合間をくぐり抜けていた時のことだった。デオキシスが急に手を引っ張ってきて、その胸に飛び込む形になった私の肩を抱き寄せたのは。

「ど、どうしたの?」

 動きを止めたデオキシスは私の問いかけに反応せず、真っ直ぐ前を見据えて何かを睨みつけている。まるで宿敵とでも出くわしたかのようだ。私にはほとんど穏やかな顔しか見せたことの無いデオキシスがこんな表情をするだなんて。デオキシスが向いているのと同じ方角をこわごわと見遣ると、そこには長く尾を引く大きな彗星が——こちらへ近づいてきている。
 どうりで、デオキシスが険しい顔になるはずだ。あんなものにぶつかったらひとたまりも無いし、避けるにしても大きさからして巻き込まれる可能性が高い。冷たい汗が背中を伝う。

 どうしよう。いや、夢だから大丈夫なのだろうか。だけど怖いものは怖い。思考がぐるぐると巡る。非力な私はデオキシスの身体に両腕を回して縋りつくことしかできない。すると私の肩を抱くデオキシスの手に、少し力がこもったのが分かった。
 デオキシスはもう片方の腕を上げる。その手のひらに紫色を帯びた光が急速に集まって、ばちばちと音を立てた。私はこのわざをよく知っている。サイコブーストだ。デオキシスは彗星を砕いてしまうつもりなのだ。
 サイコブーストが放たれ、彗星に直撃する。途端、激しい衝撃音が響いた。デオキシスは彗星の破片から私を庇うように胸の中へと抱き締めてくれる。その腕の隙間から見えたのは、砕けた彗星がかけらとなって、ちらちらと瞬きながら散らばっていく景色だった。

「……すごい。デオキシスが居れば怖いもの無しだね」

 転びそうになる私を助けてくれるのも、迫り来る彗星を壊してくれるのも、全部デオキシスなのだ。どこか誇らしげに見える表情のデオキシスは自信満々に胸を張る。

「だから、ねえ。この夢が覚めても、またいつか私と宇宙に来てくれる?」

 今度の問いかけには、大きく頷いて答えてくれた。


◇◇◇


 ふと、瞼に光が触れて目が覚めた。近くの木に巣を作っているムックルの囀りを聞き、朝が来たことを思い知る。
 とても素敵な夢だった。他でもないデオキシスと宇宙を探検できただなんて。ああ、でもズリのみの匂いがするかどうかまでは分からなかったな。もしもまた宇宙の夢が見られたら天の川まで行ってみたい。きっと言葉に表せないくらい綺麗に違いない。まあ、夢だからこそ到底あり得ないこともたくさんあったけれど。
 まだ眠たい目を擦ると、視界の端で何かが動くのが見えた。窓際に立っていたデオキシスが、私が起きたことに気がついたらしい。

「おはよう、デオキシス。あのね、すごく良い夢を見たの」

 素敵だったのは宇宙だけではない。彗星にサイコブーストをぶつけて、私を守ってくれたデオキシスは世界の誰より格好良かった。時間が経てば細部を忘れてしまうのであろう昨夜の夢を、ノートにでも書き留めておきたいくらいだ。
 目を閉じればまだ、あの景色を思い出せそうな気がする。名残惜しさに囚われている私のもとに、デオキシスが歩み寄った。寝転がる私の隣までやって来ると右手を差し出し、何かを私の手に握らせる。それはすいせいのかけらだった。カーテンの隙間から漏れる日の光を受け、青く透き通っている。
 思わずデオキシスを見ると、私に視線を向ける両の瞳がやわらかく細められているのが分かった。

「ねえ、どうしてあなたは私を喜ばせるのがこんなに上手なの?」

 デオキシスが贈ってくれたすいせいのかけらを両手で包み込む。
 あの夢は未来永劫忘れない。忘れることはないだろう。


きみのための日月星
20240217