あなたがすき
 ほんの少し、覗くだけのつもりだった。
 隣駅にあるデパートのブティックで服を見たあと、はたまたまジュエリーショップの前を通りがかった。店先に飾られたショーケース。分厚いガラスで造られたそれの中にはいくつかのジュエリーが鎮座している。そのどれもが瀟洒な意匠で、美しくカットされた宝石たちは繊細な輝きを宿していた。
 はそのうちのひとつに目を奪われた。赤味の強い桃に、淡い紫を重ねたような色——ピンクサファイアだ。ゴールドのリングにあしらわれたその宝石にどうしようもなく魅せられた。
 が時が経つのも忘れて眺めていると、ジュエリーショップからひとりの店員が出てきた。

「お客様、何かお探しでしょうか?」

 素人目にも上等だと見て分かる黒のスーツに、落ち着いた紺色のネクタイ。格式高いジュエリーショップの店員らしい服装だ。は店員が一瞬、値踏みするような眼差しを向けてきたことを感じ取った。そしてが身に纏っているのがトリニティの制服であると気づくなり、店員は柔和な笑顔を浮かべ揉み手で近寄ってくる。

「お気に召したものがございましたら、お申し付けください。ご試着も可能ですので」

 “トリニティのお嬢様”という肩書きで態度を変える——自治区内を歩いていると時たま理不尽に絡んでくる不良たちと似たようなものだ。もっともジュエリーショップともなると客を選ぶ必要もあるのだろうから、不快には思わないが。
 店員から声をかけられるのはあまり得意ではないけれど、今回に限っては有り難いものだ。はショーケースの中を指差す。

「ピンクサファイアを使ったジュエリーは、こちらに展示されている指輪の他にもございますか?」

「ええ、ええ、ございますとも! では店内へご案内致しましょう」

 売上に繋がると確信したのか、今にもスキップしてしまいそうなくらいに上機嫌な店員がを店内へ入るよう促す。
 磨き上げられた大理石の床、天井に吊るされたシャンデリア、1ミリの狂いも無く整列されたショーケースたち。豪奢な空間に制服姿の高校生が足を踏み入れるのは、おおよそ場違いだ。ちらほらと先客は居るけれど当然ながら制服を着ているのはだけだった。
 ある一画へと先導されたは、ショーケースを挟んで店員と向かい合う。

「こちらにございますのが、ピンクサファイアを使ったジュエリーです。ネックレス、ピアス、ブレスレット……もちろん指輪もご用意しております」

 はショーケースの中を覗き込み、考える。の耳たぶに穴は開いていないし、開ける予定も無い。そして日頃から銃火器を取り扱っていることを考えると、ブレスレットや指輪は避けるのが無難だろう。せっかくの美しい宝石を傷つけてしまったり、汚してしまう可能性が高い。となると必然的にネックレスを選ぶことになる。

「そうですね……ネックレスをいただきたいのですが」

「かしこまりました。カットの種類が複数ございますが、ご覧になりますか?」

 安い買い物ではないのだ、どうせなら一等気に入ったものを購入したい。が「お願い致します」と答えると、店員は嫌な顔ひとつせずバックヤードへと姿を消した。それからいくつかのジュエリーケースを手に戻って来ると、ショーケースの上でひとつひとつを開けて見せる。さまざまなカットを施されたピンクサファイアたちがシャンデリアのやわらかな色の光に照らされ、ちかちかと瞬く。それぞれに視線を巡らせていたは、あるネックレスに釘付けになった。

「この、お花のような形のものは……」

 の言葉通り、そのネックレスのトップに飾られたピンクサファイアは4つの花弁をもつ花に似ている。ジュエリーに詳しくないにはあまり見慣れないカットだった。しかし店員はどれのことを指しているのかすぐさま理解したらしく、にこやかに笑って解説してくれる。

「ええ、リリーカットですね。その名の通り、百合の花を模ったものでございます」

 百合——純潔や無垢の象徴とされる花だ。その形にカットされたピンクサファイアは、元々持ち合わせている品はそのままに愛らしさがさらに引き出されている。
 はひと目で魅了された。迷わず「そちらをいただけますか」と口にすれば、店員は「ありがとうございます」と頭を下げた。呼び寄せられた別の店員がネックレスを包んでいるあいだ、はカードを手渡して会計を済ませる。裕福といえど、世間一般とかけ離れた金銭感覚を持っているわけではない。しばらく贅沢しないでおこうと思いつつ、は店名が箔押しされたショッパーを受け取る。

「可愛らしいデザインですので、お客様にさぞお似合いのことでしょう」

 きっとがどれを選んだところで、似たような言葉で褒めそやしたのだろう。「またお越しくださいませ」と恭しくお辞儀をする店員に見送られ、はジュエリーショップをあとにした。


◇◇◇


 翌日の放課後、は荷物をまとめると真っ先に教室を飛び出した。ざわめく校舎を抜け、飛沫を輝かせる噴水を横目にトリニティ・スクエアを通り過ぎる。息を弾ませながらその足が向かったのは大聖堂だ。呼吸を整え、乱れた前髪を指先で直したはそろそろと扉に腕を伸ばした。
 祭壇へと続く、少し色褪せた赤の絨毯に影が長く伸びた。いつだって大聖堂の中は外界と隔絶されたかのごとく、神聖な空気に満ち満ちている。気が引き締まる心地だ。ステンドグラス越しに投げ込まれる、やわらかな光に引き寄せられるようにしては絨毯の上を歩く。そのうちに会いたかった人物の姿を認め、口元に微かな笑みが浮かんだ。
 祭壇に最も近い長椅子の端に腰掛け、熱心に祈りを捧げるひとりのシスター。シスターフッドの長である歌住サクラコその人だ。

 はサクラコに声をかけようと口を開きかけたものの、祈念の邪魔をしてしまうのは本望ではない。やはり出直そうかと考えたところで、サクラコが後ろを振り向いた。

さん。本日も来てくださったのですね」

「ご機嫌よう、サクラコ様。……あの、お祈りの邪魔してしまったでしょうか」

「いいえ、来てくださった方を優先するのは当たり前のことですから。お気になさらず」

 微笑むサクラコにも相好を崩す。心優しいこのシスターのことを、はよく慕っているのだ。「気難しそう」「怖い」だなんてとんでもない——こんなにもあたたかな人なのに。サクラコを敬遠する声を聞くたび、はそう強く思う。


 あれは、湿度の高い空気が肌にまとわりつくような、雨季を迎えた6月のことだった。
 珍しく梅雨の晴れ間に恵まれた日。図書館へ本を返しに行こうとしていたは、午後になって急に振り続けた雨に茫然とした。一日中晴れだと聞いていたから傘は持って来ていないし、クラスメイトは部活や委員会に行ってしまったから送ってもらうこともできない。雨脚は強い。トリニティの敷地は広いから走って行くにしても着く頃にはびしょ濡れだろう。そんな姿ではきっと図書館に入れてもらえないし、第一本だって目も当てられないことになってしまう。そして何より最悪なことに、貸出期限は今日までだ。図書委員に叱られてしまう。

「何かお困りですか?」

 どうしようかと途方に暮れていたに声をかけてくれたのが、サクラコだった。サクラコは泣きそうな顔のから事情を聞くなり、快く傘に入れてくれたのだ。
 サクラコは大聖堂と正反対の場所に位置する図書館の前までわざわざ送ってくれた。ありがとうございますと頭を下げたは、サクラコの左肩が濡れて制服の色が濃くなっているのに気がついた。きっと自分が濡れることも厭わず、傘をの方に傾けてくれたのだろう。

「お力になれて何よりです。では、私はこれで」

 穏和な笑みを浮かべ、サクラコは踵を返した。はベールの揺れる後ろ姿が雨に隠れるまでずっと見つめていた。
 後日がお礼にお菓子を持って大聖堂を訪れてからというもの、ふたりの交流は続いているのだ。あまり業務の邪魔にならないよう一、二週に一度ほどはサクラコに会いに来ている。部活にも委員会にも所属していないにとって、サクラコは唯一接点のある先輩だ。


 はサクラコに勧められて隣に腰かけた。ステンドグラスが光を受け床に淡く模様を描いているのを見ながら、カバンを膝の上に乗せる。

「何か、良いことでもありましたか?」

「え?」

「なんだか嬉しそうなお顔をされていますので」

 サクラコはの顔を覗き込み、そう言った。良いこと……思い当たる節がある。はぱっと表情を明るくした。

「実は昨日、素敵なお買い物をしたのです」

 はセーラー服の下に隠していたネックレスを引っ張り出す。胸元できらりと輝くピンクサファイアを見て、サクラコは「まあ」と声を上げた。

「綺麗なネックレスですね。さんによくお似合いです」

「えへへ……ありがとうございます」

 昨日、店員に似たような言葉をかけられても、リップサービスなのだろうと冷めたことしか思えなかったというのに、相手がサクラコならば素直に受け止められる。にとっては、たとえ社交辞令だとしてもサクラコに褒められるのは嬉しいのだ。

「本当は、アクセサリーを買うつもりは無かったのですけれど……ピンクサファイアを一目見た瞬間に、心を奪われてしまって」

 ほの暗い大聖堂の中でもバイオレットピンクの輝きは陰らない。その高貴さと相応の価値が付いていたのだ、手に入れたばかりだから浮かれて着けて来てしまったけれど、万一にでも壊したり無くしてしまったらと考えると恐ろしい。は明日からは外してこようと決めた。ジュエリーケースに入れて眺めるだけでも十分に満たされるから。

「ですが、その……安くはなかったので、しばらくは倹約しなくてはいけませんが……」

「ふふ、そうですね。しかし、たまの贅沢も悪くはありませんよ」

 サクラコはやわらかく瞳を細める。まるで白百合がそっと花開くように清らかな笑みに、は見惚れた。そしてその美しいまなこの色に既視感を覚えたのだった。

「……サクラコ様の瞳はピンクサファイアと似ていますね。美しい色で、綺麗な光を湛えていて……」

 思わず口をついて出た言葉に、ははっと息を飲んだ。今、自分はとんでもなく恥ずかしいことを言ってしまったのではないだろうか。しかも瞳を宝石に例えるだなんて、陳腐すぎる。
 けれど同時には気づいてしまったのだ。ピンクサファイアに心を奪われた理由、数ある中でリリーカットを選んだ理由。瞳の色、清廉なシスターの化身とも言える百合——サクラコを連想させるものだからだ。
 ああでも、それが意味することって。の頬がみるみるうちに赤く染まる。

「すみません、私、変なことを……」

「いえ、私は……」

「あの、どうか忘れてください……。わ、私、急用を思い出したので今日は失礼致します!」

「あっ……」

 うまい言い訳が浮かばなかったは膝に乗せていたカバンを抱えて、逃げるように大聖堂をあとにした。入り口付近でほかのシスターに「走ってはいけませんよ」と注意されたものの返事すらできない。
 そのままあてもなく走っていたのに、気が付けば辿り着いた先は図書館だった。サクラコに親切にしてもらったあの雨の日がの脳裏を過る。
 は肩で息をしながら入り口の端にしゃがみ込んだ。頬が熱いのはやはり羞恥のせいなのか、走ったせいなのかもはや分からない。背中を汗が伝う。いったい、次にどんな顔をしてサクラコと会えばいいのか。冷たい指先で頬を包み込みながらは瞳に涙を浮かべた。しかし、その表情は絶望したような暗いものではない。恋する乙女の顔だった。


「シスターサクラコ様、ご機嫌よう」

 慌ただしく去っていく下級生に走らないよう注意したシスターは、大聖堂の奥にサクラコの姿を見つけると挨拶に向かった。

「先ほどの一年生は……あら? もしや、体調が優れませんか?」

 シスターは首を傾げ、心配そうに眉を下げた。サクラコは小さくかぶりを振る。

「いえ、私は至って健康ですよ」

「そうでしたか、失礼致しました。お顔が赤いように見えましたので……」

 シスターからの指摘にサクラコは一瞬言葉を詰まらせ、それからほんの少し口元を緩めた。

「……そう、ですね。風邪ではありませんが、少し熱いです……」

 恋愛小説にでも出てきそうな口説き文句をおそらく無意識に向けてきたは、自分の放った言葉の意味を理解した途端に脱兎のごとく逃げ出してしまった。引き止める隙も無く、サクラコが最後に見たのは耳まで真っ赤に染まったの横顔だ。その反応に少なからず自分への好意を感じ取ってしまい——そしてまっすぐな褒め言葉が嬉しくて、サクラコもつられて赤面してしまった。慕ってくるのことを前々から可愛いと思っていたけれど、ただの後輩に向けるのとは違う感情がサクラコの胸の奥に芽生え始めている。

 ——いつもさんが大聖堂に来るのを待っているだけでしたが、今度は私から会いに行ってみましょうか。さんはどんな反応をするのでしょう。
 サクラコは団扇手で頬を冷ましながら、ころころと表情を変える後輩のことを想った。


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20240126