玄関の鍵が開錠される、がちゃりという音がした。
うとうとしていたグレイシアの耳がぴくりと跳ね、閉じられていた瞼から浅葱色の瞳が覗く。まだ霞む視界をクリアにするため、グレイシアはゆっくりと数回まばたきをした。けれどやはり眠たくてもう一度瞼がくっつく。グレイシアが睡魔と戦っているあいだにも足音は近づいてきて、リビングのドアが開いた。姿を現したのは買い物から帰宅しただ。
「ただいまあ」
お出迎えに行きたかったけれど、眠気が強くて身体が動かない。グレイシアは寝言のように曖昧な声でおかえりと返事をした。それでもの耳にはちゃんと届いたらしい。冷たい手のひらがぽんぽんと頭を撫でていった。
心地良い物音を聞いているうちに目が冴えてきた。グレイシアが部屋を見回しての姿を探すと、彼女はマグカップを片手にキッチンから出て来るところだった。グレイシアは鼻をすんと鳴らす。淡い水色をしたマグカップの中身は、あたためたモーモーミルクにあまいミツをひと匙入れて作ったホットミルクだ。冬になってからというものはそればかりを飲んでいる。
はソファに腰掛け、ホットミルクにふうふうと息を吹きかけた。それからちょこっと口をつけると、思いのほか熱かったのか顔を顰める。グレイシアはクッションから立ち上がり、ぐっと伸びをするとの足元へと擦り寄った。
「起こしちゃった? ごめんね」
眉を下げたにグレイシアは首を横へと振る。微睡んでただけだから大丈夫だよ、と。
は安心したように微笑み、マグカップを持っていない方の腕を伸ばしてグレイシアの頬を撫でてくれた。その心地よさにグレイシアのつり目がちな瞳はやわらかく細められ、しっぽがゆったりと揺れる。機嫌が良い時のサインだ。
グレイシアはソファの空いたスペースに飛び乗り、の膝に顎を乗せてくるりと丸くなった。「甘えん坊だなあ」とくすくす笑い声を立てたの手のひらが背中を滑る。
はニュース番組を観ているようだ。今は天気予報士が拡大された地図を背景に、今夜から明日にかけての天気を解説している。気圧がどうとか、気温がどうとか、難しいことはグレイシアにはよく分からない。両耳がへたりと垂れ下がる。
「……わ、夜中から雪降るんだ」
雪。が独り言ちたその単語に、グレイシアはぱちっと目を見張った。雪が降るの? 起き上がったグレイシアは「どうりでこんなに寒いわけかあ」と納得しているの膝に前脚を乗せ、うかがうように顔を見上げる。
「どうしたの? ……あ、分かった。雪が楽しみなんだ?」
はいたずらっぽく笑って、グレイシアの小さな鼻を指先でちょんとつついた。嬉しそうな鳴き声を上げた彼に、も優しい眼差しを向ける。
それからというものグレイシアはそわそわして、しばらく部屋の中を歩き回った。いつ降るんだろう、もしかしたらもう降り始めているかもしれない。グレイシアはカーテンを開けてとにせがんでは「まだ降ってないよ」と苦笑された。もっと夜が深まって寒くならないと雪は降らないらしい。誰が悪いわけでも無いけれど、むうと頬を膨らませた。
——早く明日になればいいのに。雪で真っ白になった世界で遊びたい。
瞼の裏に浮かぶ雪景色に焦がれ、その日、グレイシアは眠りに就くまでしきりに外を気にしていた。
◇◇◇
外からムックルの元気な鳴き声が聞こえてくる。
グレイシアはそっと目を覚ました。ぼんやりした頭のまま前脚で顔を洗う。昨晩はぐっすり眠れた。と雪遊びをする楽しい夢も見ることができて寝覚めも良い。グレイシアは大きなあくびをひとつしたあとでふと気づいた。身体に触れる空気の温度がいつもより低い。これは、もしかしたら。
は毛布を口元までかけて、まだすやすや眠っている。起こしてしまわないようグレイシアは慎重にベッドへと飛び乗った。それでも無音とはいかないし、彼の体重の分だけスプリングは軋む。「ううん……」とが唸って寝返りを打つのを見て、グレイシアは一瞬どきりとした。しかし目を覚ましてはいないようだ。ほっと胸を撫で下ろす。
ベッドの横には窓がある。枠に前脚を掛け、カーテンを鼻先で押しやって器用に開けた。けれど結露して白く曇った窓の外はよく見えない。慌てて肉球で拭えば、ようやく!
世界は銀色に染まっていた。グレイシアの大好きな雪だ。
「……グレイシア、もう起きたの? 早いねえ」
寝起きの少し掠れた声で名を呼ばれ、グレイシアはぱっと振り向く。身体を起こしたが、寝癖のついた髪を撫でつけながらあくびをしている。グレイシアはすぐそばまで行くと、起こしちゃった? との顔を覗き込んだ。うっすらと涙の膜が張ったの瞳はいつもより潤んでいる。
「ふふ、嬉しそうな顔してる。雪降ってるんでしょ?」
あたたかい手のひらでグレイシアの両頬を包み込み、まだ瞼の重そうなは締まりのない笑顔を浮かべた。
「朝ご飯ができるまで、遊びに行っておいで」
遊びに行って、いいの?
グレイシアの耳がぴんと立った。はベッドを抜け、もこもこのスリッパを履くと玄関の方へと向かう。先導されるようにしてグレイシアはその後を着いていく。「さむ……」と呟きながら腕をさするは、鍵とチェーンを外してドアを開け放った。瞬間、とびきり冷えた風がひゅうと家に吹き込んで身体を撫でていく。グレイシアの胸がどきどきと高鳴った。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
いってきます、そう返事をしてグレイシアは家をあとにした。
様変わりした景色を観察しながら、グレイシアはあちこちを駆け回る。
葉を落としていた木は立派な雪のドレスを纏い、立ち並ぶ家の色とりどりの屋根もすべて白で覆われている。いつもグレイシアがと歩く石畳の道までも雪に埋もれていた。
グレイシアは瞳を輝かせ銀世界へと踏み出す。誰にも踏み荒らされていない新雪に、可愛らしい足跡が点々と描かれていった。
今もささやかに降っている粉雪と踊るようにくるくる回ったり、雪の中へ思いきり飛び込んだり。ひとしきり堪能したグレイシアは雪まみれになってしまった身体をふるふると振った。興奮冷めやらぬまま嘆息を漏らせば、それはたちまちダイヤモンドダストに変わる。灰色に染まった雲の隙間を縫って届く光芒に照らされ、ちらちらと眩い輝きが舞っている。グレイシアはごろりと転がって、雪に頬を埋めながらその光景を仰いだ。
——綺麗。にも見せたいなあ。
グレイシアはのことを想った。
寒がりなのことだ、きっと冷たい手を擦りながらホットミルクでも飲んでいるに違いない。マグカップの底が見える頃、指先があたたまったら朝ご飯の準備を始めるのだろう。ご飯を食べ終えたら一緒に遊ぼうよと誘おうか。でも、グレイシアはなんだか今すぐに会いたい気分だ。まっさらな世界に居るからかな。一度戻ろうか。そんなことすら考えた時だった。
足音が聞こえてきたのだ。地面を叩く踵の音ではない。積もった雪を一歩一歩踏みしめる、ぎゅっぎゅっという低い音。誰かが近づいて来ている。音から察するに二足歩行で、あまり雪の上を歩くのに慣れていなさそうだ。この町に野生のポケモンが迷い込むことは少ないけれど、念のためグレイシアは警戒して耳を澄ませる。
「いた、グレイシア!」
だ! グレイシアはぴょんと飛び起きる。きっと真っ白な景色の中でグレイシアの身体はよく目立ったことだろう。想いが通じたようで浮き立ったグレイシアは、まだ少し離れた場所にいるまで一目散に駆け寄った。
「足跡が残ってたから、どこまで行ったかすぐ分かったよ」
は屈んで、グレイシアの頭に乗っている雪を払ってくれた。口元までぐるぐるに巻かれたマフラー、あたたかそうなダウンジャケット、それからファーのついた手袋。は着膨れしていつもよりシルエットがふわふわしている。
「朝ご飯はまだなんだけどね、雪にはしゃいでるグレイシアを見てたら私も外に出たくなっちゃって」
ふふ、とが笑い声を漏らせば、それは白い吐息となって霧散した。の耳は早くも北風の冷たさによってほの赤く染まっている。
会いに来てくれて嬉しい。グレイシアはそっと瞼を閉じた。
はたくさん服を着ているからきっと大丈夫だろう。グレイシアは体温を低下させ、周囲の大気を急速に冷やす。すると朝日に照らされたふたりを包み込むように細氷が降り注いだ。は瞠目し、その美しい光景に息を飲む。
「綺麗……。グレイシアが見せてくれたの?」
そうだよ、と返事をするグレイシアのことを、はしゃがんで抱きしめる。そのままふたりで儚い輝きをしばし眺めた。同じ景色を見て感動を分かち合えるのはとても幸せで、尊いことだ。子どものように瞳を輝かせるを、グレイシアは優しい眼差しで見つめていた。
「ありがとう。寒いのは苦手だけど、グレイシアと一緒ならへっちゃらかも」
グレイシアの顔を覗き込み、が屈託無く笑う。
本当? じゃあ雪が降っている間は、毎日遊ぼうね。そんな気持ちを込めてグレイシアがよく冷えた鼻先をの頬にちょんとくっつければ、彼女は「ひゃー、冷たい!」とくすぐったそうに身をよじった。グレイシアもつられて笑う。
ふたりの冬はまだまだ、始まったばかり。
ゆきにころがる
20240106