海誓山盟
 ……おかしい。いつもなら六時ぴったりに目覚まし時計が鳴って、が起きて来るはずなのに。
 アシレーヌは壁掛け時計が六時を十分ほど過ぎているのを見遣り、困った顔をした。もしかして、アラームをかけ忘れてお寝坊しちゃっているのかしら。それとも具合が悪くて起きられないとか。アシレーヌはあれこれ考えていたが、兎にも角にも様子を見に行かないことには始まらない。前者なら会社に遅刻してしまったら大変だし、後者なら今すぐにでも助けに行かなければ、と。

 六時起きのにつられて早起きが習慣となったアシレーヌは、するりと自分用のベッドを抜け出しての部屋へ向かった。閉じられたドアの向こうからは物音ひとつ聞こえない。とりあえずノックをしてみるも、返事は返って来ず。アシレーヌはおずおずとドアノブを捻った。
 やはりは眠っている。アシレーヌはベッドのそばまで行って、の顔を覗き込んだ。すやすや寝息を立てて熟睡している。ここのところ残業続きで、帰宅する時には日付を跨いでいることも数回あった。そのくせ出勤時間は決まっているため必然的に睡眠時間は短くなるわけで、目の下には隈ができている。はアシレーヌに心配をかけまいと気丈に振る舞っているものの、疲労は相当溜まっているはずだ。アシレーヌは心配でたまらない。そして何より、力になれないことを歯痒く思っている。

 本当は、気持ち良さそうに寝ているところを起こしたくないけれど……。アシレーヌは優しくを揺さぶった。安らかだったの寝顔が顰められ、やがてぼんやりと瞼が上がる。


「おはよぉ……アシレーヌ……」


 掠れた声でかろうじて挨拶をしたは、アシレーヌの方へ手を伸ばす。が、のろのろと低空飛行をしたその手は、すぐに力尽きてシーツの上へぱたりと落ちてしまった。同時に瞼も下がって、はまた眠りの世界へ逆戻り。アシレーヌは焦って、先ほどより強めにを揺さぶった。


「わ、わ……!?」


 次はしっかり目を覚ましてくれたらしい。は驚いて起き上がった。その拍子に寝癖のついた髪が揺れる。
 アシレーヌは目覚まし時計を手に取り、へと差し出した。そうこうしているうちにも時間は経過して、液晶画面には六時十八分と表示されている。
 アシレーヌが必死に起こしてきた理由を察したのだろう。は「ああ!」と合点がいったような声を上げた。時計を見るなりは慌ててベッドから出てくるはず、そう思っていたアシレーヌは首を傾げる。


「ごめん、伝え忘れちゃってたね。実は今日からお休みなんだ」


 お休み。ということは、お仕事に行かなくていいの? 平日なのに?
 アシレーヌがぽかんとしていると、が彼女の頭を撫でた。


「何日か休暇を取ったの。だから久々に海へ行こうよ」


 そう付け足すに、アシレーヌはようやく笑顔を見せた。しばらくは一日中と一緒に居られる。そして海へ行こうと提案してくれたことが嬉しくて。アシレーヌはそのままに抱きつき、ふたりしてベッドへと沈んだ。アシレーヌからの抱擁と頬擦りに「くすぐったいよー」との楽しげな笑い声が響く。しばらくじゃれあっていたが、はやがて電池が切れたように再び眠りに落ちてしまった。アシレーヌはそっと身体を起こし、にブランケットを掛けてやる。
 お休みだと知らなかったとはいえ、起こしてしまってごめんなさい。ゆっくり眠ってね。
 音を立てないように部屋を出て、アシレーヌは自分のベッドに戻って行った。まだ朝の六時なのだ、安心したらアシレーヌも眠たくなってきてしまった。壁際に置かれた大きなクッションの上でアシレーヌがくるりと身体を丸めると、カーテンの隙間からこぼれた光に鰭が照らされてほのかに輝く。


 子どもはいつか大人になる。
 かつて島巡りに励み、初めて目にするポケモンたちに心を躍らせたも今では一社会人だ。バトルは好きなものの得意ではなかったは、島巡りを終えると徐々にバトルから遠ざかっていった。それでもアシレーヌはパートナーとして変わらずの隣に居て、生活を共にしている。
 アシレーヌはと島巡りをしていた時のことを、時折夢に見る。挑まれるがままバトルをしては勝ったり負けたり。強くなるにはどうすれば良いかふたりで一生懸命考え、いろいろな戦略や技を試したり。そうして夜になる頃にはへとへとで、いつも抱き合って眠っていた。
 その思い出はアシレーヌにとって宝石よりも価値のある宝物だ。懐かしくて愛おしい、そしてもう戻ることのない過去の記憶でもある。


◇◇◇


 がようやく起床してきた頃には、十四時を過ぎていた。日頃眠れていない分を取り戻そうとしているかのようだ。さっそく休暇一日目の半分が睡眠に費やされたわけだが、その代わり、長く眠ったおかげでの顔色はすっかり良くなっていた。


「あー、よく寝た……」


 のそのそと起きてきたの掠れた声に、ひと足先に目覚めテレビを観て時間を潰していたアシレーヌは顔を上げる。朝食をすっ飛ばし、昼食と言うにも些か遅い食事を済ませると、はさっさと支度に取りかかった。てっきりもっとのんびりするものだと思っていたアシレーヌは、少しだけ驚いていた。


「遅くなってごめんね。それじゃ、行こうか」


 アシレーヌをモンスターボールに戻し、は大事にバッグの中へしまった。準備さえできてしまえば海まではライドギアでひとっ飛びだ。ふたりはリザードンの背に乗り、雲ひとつなく晴れ渡るアローラの空を駆け抜けた。
 降り立ったのはハノハノビーチだ。到着するなりさっそくモンスターボールから出してもらったアシレーヌは辺りを見回した。バカンスシーズンを過ぎたこともあり観光客の姿は疎らだ。人でごった返しているよりは良い。
 寄せては返す波や頬を撫でる潮風が早くおいでとアシレーヌを誘う。海色の瞳をきらめかせ、彼女はの方を振り向いた。


「うん、今日はめいっぱい遊ぼう。私も水着持って来たしね」


 「すぐ着替えてくるから、先に入ってて!」と言い、はいそいそと更衣室へ駆けて行った。
 ああ、と海で遊ぶのなんていつぶりかしら!
 アシレーヌはわくわくした気持ちで久方ぶりの海へ一目散に飛び込んだ。ざぶんと音が立ち、水飛沫が海面にたくさんの波紋を作る。美しく透き通ったアローラの海は、優しくアシレーヌを迎え入れてくれた。海中にはたくさんのポケモンたちがいる。身体に走る鮮やかなラインを誇らしげに見せつけて泳ぐケイコウオ。すやすやと昼寝をしているサニーゴと、その枝の間でひと休みするラブカス。ヨワシは大きな群れを成し、それを岩陰からオクタンがそっと見ている。
 ここはみずタイプのポケモンたちの楽園だ。それはアシレーヌにとっても同様である。楽しげにくるりと回りながら海の中を探検するその顔は生き生きとしている。が忙しくしていて、海はおろか遠出もできていなかったこともあるのだろう。久々の自由を謳歌しているようだった。


 さて、はそろそろ着替え終わった頃でしょう。
 ひとしきり海を堪能したアシレーヌが浜辺に戻ろうと思った時のことだった。波間から顔を出すと風に乗って歌声が響いてきたのだ。聴くものの心を潤すように清冽な声だった。
 一体、誰が? アシレーヌは思わず声のする方へ視線を遣った。目を凝らせば数十メートルほど離れたところにポケモンの群れが居る。中心で楽しげに飛沫を上げながら泳ぎ、高らかに歌っているそのポケモンは——アシレーヌと同じ姿をしていた。

 彼女はククイ博士のもとでたまごからかえり、と出会ってからはずっと一緒に過ごしていたので、当然ながら群れで生活したことなど一度も無い。巡り合わせというものなのか、旅をしている間も野生のアシレーヌたちの群れと遭遇したことも無かった。
 聴こえてくるのは知らないメロディーなのに、どうしてだか懐かしくてたまらない。アシレーヌはまばたきすらできず、群れが近づいてくるのを黙って見ているしかできなかった。


「あれ、見ない顔だね。群れとはぐれてしまったのかな?」


 リーダーなのであろうオスのアシレーヌは、彼女に気がつくとそう話しかけてきた。そのほか、群れのメンバーであるオシャマリやアシマリたちは彼の後ろに居て、興味津々といった顔でこちらをうかがっている。


「いいえ、私は群れに属していないわ。人間と暮らしているの」


 アシレーヌがそう言うと、一匹のオシャマリが目を輝かせてこちらへ寄ってきた。


「へえ、そうだったんだ! 人間との生活って楽しい?」

「もちろん楽しいわよ。大好きなパートナーだから」


 のことを思い出し、アシレーヌはやわらかな微笑を浮かべた。きっとは今頃アシレーヌを探しているに違いない。早くを迎えに行きたい気持ちと、同種族との邂逅を無駄にしたくない気持ちにアシレーヌは板挟みされていた。


「……海を離れるのって、つらくないの?」


 小柄で内気そうなアシマリが、おずおずと尋ねてきた。勇気を振り絞って質問したくれたのだろう。安心させるように目線を合わせ、アシレーヌはアシマリの頭を撫でる。


「私は生まれた時すでに海を離れていたから、それほど苦痛ではないわ。……でも、海は大好きよ。ずっと居たいくらいにね」

「ふうん? それなら帰っておいでよ。行くところが無いなら僕の群れに入るといい。みんな歓迎してくれるはずさ」


 思わぬ提案にアシレーヌははたと目を見開いた。周囲からは「賛成!」「おいでよー」と賛同の言葉を口にするのが聞こえてきた。みんな歓迎してくれるはず、というのはどうやらお世辞ではないらしい。
 ——もし、彼の手を取ったら。きっとアローラだけではない、世界中の海という海を旅できるのだろう。これまで歌は自分自身で作っていたけれど、群れから代々伝わるのだという歌を継承することだって叶うのかもしれない。人間のパートナーとして生きていくために、手に入れることのできなくなったものが……。
 アシレーヌは澄んだ瞳を瞼で隠した。


「アシレーヌ」


 遠くからがアシレーヌを呼ぶ声が聞こえた気がした。いつだって愛おしむような色を滲ませる優しい声。出会った時からそれはずっと変わらない。
 彼女の答えは自明だった。


「嬉しいお誘いだけれど……私は海に帰るつもりは無いの。この先もずっとのそばに居るつもりだから」

ってだれー?」

「……私にとって、世界で一番大切な人。そして、世界で一番私を大切にしてくれる人よ」


 アシレーヌの中で、とアローラの島々を旅をした数年間は何物にも代え難い宝物だ。そして旅を終えてからの生活だって負けず劣らず幸せに溢れている。なぜならアシレーヌはから精一杯の愛情を感じるからだ。
 はどんなに忙しくても、疲れていても、アシレーヌに冷たくしたことは無い。残業でへとへとになっていたって、休日を見つけては外に連れ出してくれる。今日だってそうだ。が目まぐるしい日常の合間を縫ってアシレーヌのために時間を費やしてくれた時、ああ自分は愛情を注がれている、と強く感じるのだった。


「だから、ごめんなさいね。私の居場所はの隣なの」

「残念だな。でも、そういうことなら仕方ないね」

「大好きな人とお幸せにねー!」


 元気に手を振るオシャマリたちにアシレーヌも振り返す。そのまま、群れが去ってその姿が見えなくなるまで眺めていた。
 さあ、のところへ帰らないと。
 アシレーヌはもう一度海中へ潜ると、今度はポケモンたちに見向きもせず浜辺へと向かって行った。ずいぶんと待たせてしまったことだろう。


「……あっ、アシレーヌ! よかった、見つかって」


 案の定、は着替え終わってからアシレーヌの姿を探していたらしい。アシレーヌを見るなりほっとした表情を浮かべて駆け寄って来た。


「久しぶりの海はどう? ごめんね、最近なかなか時間が取れなくて……」


 アシレーヌはの両手を握り、かぶりを振った。
 謝らないでほしい。が私のために時間を割こうとしてくれるだけで嬉しいの。そんな気持ちで。
 きっと伝わったのだろう。しゅんとしていたは少し驚いたように目をしばたかせ、それから蕾が綻ぶように微笑んだ。


「ありがとう、アシレーヌは優しいね」


 アシレーヌもにこりと屈託無く笑ってみせた。
 初めて出会ったあの日。きらきらした笑顔でアシマリを抱き上げてくれた時から、島巡りを終えて今に至るまで。は変わらずアシレーヌを大事に愛してくれている。アシレーヌもまた、を愛する気持ちは時が経てども変わり無い。それはこの先も同じだ。

 が着ている白いワンピースの水着が、海風に吹かれて裾を揺らしている。アシレーヌはいつか見た花嫁のドレスを思い出した。ホロクと呼ばれるウエディングドレス、デンドロビウムとイリマの花を編んで作られたハクレイで髪を飾った姿。遠くから少し眺めただけだったけれど、微笑み合うふたりの幸せそうな様子は今も鮮明に憶えている。あれは永遠の愛を誓う儀式なのだという。ならば、アシレーヌともそれに倣ったって良いだろう。寄り添って歩み続けたい相手はだけであると改めて実感した今、居ても立っても居られない気分だった。きっと人間が「この相手と夫婦の契りを交わしたい」と感じる時も、同じような気分なのだろうとアシレーヌは思う。

 ねえ。ここにはチャペルも指輪も無いし、牧師さんだって居ないけれど。アローラの海に不変の愛を誓いましょう。

 アシレーヌは瞼を伏せ、桃色の鼻先をの鼻先にくっつける。くすぐったそうに笑い声を上げて目を細めるの瞳に映るのは、アシレーヌだけだった。


海誓山盟
20231203