忘れられない夜の話
 は寝る前の身支度を終え、眠気が来るまでぼんやりテレビを観ていた。ガラル地方でブレイク中のコメディアンはトークが上手で、ついつい見入ってしまう。彼はパートナーポケモンであるアオガラスがいかに自分より賢いのかを、おどけながら能弁に語っていた。
 夢中になっていたがCMの合間にスマホを手に取ると、友人からメッセージが届いた旨の通知がいくつか待ち受け画面に並んでいる。は内容を確認するより先に、現在の時間に驚いてしまった。思いのほか時間が経過していて、あと数分もすれば日付を跨ぐところだ。もうそろそろ寝なくてはと焦りに似た感覚が湧き上がる。はテレビを消すとスマホを手にベッドへ向かった。
 部屋の壁際に配置されているベッドのそばには窓がある。テレビが消されて静まり返った部屋に、叩きつけるような雨音が響く。雨脚はどんなものだろうかと気になったはカーテンを捲った。街灯の光に照らされ、大きな雨粒が勢いよく地に落ちていくのが見える。そこそこ強い雨のようだ。
 がスマホのロックを解除し、友人からのメッセージに目を通せばそれもこの雨に関する話題だった。「雨すごいね。朝までに止んでくれればいいんだけど……」そう心配している理由は、明日たちが久々に顔を合わせて食事に行くからだ。テレビ番組の続きをそっちのけでベッドに入ったのもそのためである。晴れてほしいとまでは言わないから、せめて止んでほしい。はメッセージに返信すると部屋の電気を消し、ベッドへ潜り込んだ。真っ暗な中で雨の降る音と、濡れたアスファルトの上を車が走る音だけが聞こえてくる。
 は少しだけ眠気の訪れた瞼を閉じながら、先ほどまで見ていた番組の内容を反芻した。コメディアンのパートナーであるアオガラスの話。
 アオガラス——そのポケモンにはも縁があった。


◇◇◇


 一年ほど前の、厳しい寒さが身に染みる初冬の夜のことだった。
 今日のようにひどい天気で雨は凍てつくほどに冷たく、街を歩く人たちは皆足早に家路を急いでいた。もその中のひとりだった。
 が残業でへとへとになって自宅のアパートに帰って来ると、エントランス前の植え込みに一匹のアオガラスがうつ伏せで倒れていた。暗い色の身体は闇に紛れて目視しづらいのにが発見できたのは、そこかしこに散らばった羽根があったからだ。縄張り争いに敗れたのか、他の野生ポケモンに襲われたのだろうか。そのアオガラスは身体中が傷だらけで、羽根を閉じることすらできないようだった。

どうしよう。はその場に突っ立ったまま呆然とした。しかし人の気配を察知したらしいアオガラスの、開いた左目に宿った光があまりに鋭くて。それはきっと近寄るな、触るなというアオガラスの拒絶を込めた視線だったのだろうけれど。射竦められたは却って「もたもたしている暇は無い」と思い、凍りついた身体を突き動かされた。
 は部屋に戻って大きめのタオルを持って来ると、アオガラスの濡れた身体をそれで包み込んだ。一体何をする気だと、アオガラスは残り少ない体力を使って威嚇の鳴き声を上げたり、羽根をばたつかせた。けれどは引き下がらない。「ごめんね、変なことはしないから……」と伝わるか分からない意図を説明し、アオガラスを抱えて部屋まで階段を駆けて行った。

 一人暮らしの部屋は当然ながら真っ暗で、暖房もついていない。はアオガラスを腕に抱いたまま電気と暖房をつけ、最も暖房が当たりやすい場所に陣取った。タオルに巻かれたアオガラスが暴れないことを確認すると、戸棚にしまってあったいいキズぐすりを手に取った。
 はアオガラスを膝の上に乗せ、そっとタオルを捲る。身体に無数の傷があり、血が滲んで痛々しい。はアオガラスの傷にいいキズぐすりを吹きかけていった。やはり滲みるのか、アオガラスは苦しそうな声を上げて身体をよじる。

「ごめんね……。すぐ終わるから」

 いいキズぐすりを吹きかけ終える頃には痛みが和らいだのか、アオガラスは少し落ち着いたようだった。けれど瞳には警戒の色がありありと浮かんでいる。身体の自由が利く状態ならば今にも突き回してきそうな威圧感にたじろぎつつ、一方で綺麗な深紅の瞳だな、とは場違いなことを思った。そしてその時初めて、はアオガラスが隻眼であることに気がついたのだ。アオガラスの右目は常に閉じた状態で、瞼を縦断するように引かれた傷がある。それは身体の生傷とは異なり、傷つけられてから時間が経っているようだった。

「……身体、少しは良くなったかな。まだ雨もひどいし、今晩は休んでいかない?」

 が努めて優しく問うも、返事はない。
 はクッションにもタオルを巻き、その上にアオガラスを移動させた。それから温めたミルクの入った器をそばに置く。食欲があるかどうか分からないが、とにかく身体を温められるものをと考えたのだ。
 あまり近くをうろつくと気が休まないだろう。はアオガラスをなるべく刺激しないために、これ以上は不必要に構わないよう決めた。
 が夕食とシャワーを済ませ、寝る前の身支度を終えて来ても、アオガラスはおとなしく横たわっていた。先ほどよりはリラックスしているように見えなくもない。よかった、とは胸を撫で下ろす。途端、気の緩みと残業の疲れが一緒くたに押し寄せてきて瞼が重くなってきた。今日は早く寝よう。
 がベッドに入ろうとすると、そばにある窓の外からノイズにも似た雨音が聞こえてきた。まだ降っているのだろうかと気になり、カーテンを捲ってみるもよく見えなかったため、は窓を開く。瞬間、凍えるような冷たい風が頬を撫でた。雨もまだ止む気配はなさそうだ。せっかくシャワーを浴びて温まった身体が冷えてはいけない。はすぐさま窓を閉じ、しっかり鍵をかけるとベッドへと潜り込んだ。
 明日は休みだから、念のためポケモンセンターに連れて行こう。そう考えつつ、は眠気の限界を迎えた瞼を閉じた。


 ——身体は温かいのに、肺に届く空気はひんやりしている。その異変を感じ取ったために脳が覚醒し、眠っていたはゆっくりと目を覚ました。寝起きでぼやけた視界を明瞭にさせるべく、手の甲で目を擦って数度瞬きをする。
 いつもと変わらない自室……だけれど、昨夜閉めたはずの窓が開け放たれ、カーテンが風で棚引いていた。どうりで寒いわけだ。まさか泥棒にでも入られたのかと心臓が跳ね上がって、は大慌てで身体を起こす。ベッドから下りたところで、はもうひとつ気がついた。アオガラスが居なくなっている。凹みの残ったクッションと、くしゃりと皺の寄ったタオル、それからミルクが入っていた空の皿が残されているだけだ。はお世辞にも広いとは言えない部屋の中を見渡してみたけれど、どこにもアオガラスの姿は見当たらない。ついでに泥棒が部屋を物色した形跡もあるか見てみたが、貴重品にはまったくの手付かずで、取られたものも無い。

 となると、窓が開いていた理由は。の中で姿を消したアオガラスと、閉まっていたはずの窓が開放されていた理由が繋がる。
 おそらく、アオガラスはが目覚める前にこの窓を開けて出て行ったのだろう。でも、野生のポケモンが窓の開け方なんて知っているものなのか。は一瞬そう考えたけれど、アオガラスは高い知能を有しているし、昨夜が窓を開けたところを見ていたのだとすれば。クレセント錠を嘴で持ち上げて足を使って窓を開け、少しの隙間さえ確保できれば、あとは身体をねじ込んでしまえばどうにでもなる。が窓を見遣れば、全開にされているわけではなく開いているのは半分程度——あのアオガラスが身体をくぐらせるには丁度良いくらいだ。
 事件性は無いだろうと結論づけ、は窓から外を覗き込んだ。一夜明けてもいまだ空の機嫌は良くならず霧雨が降っていて、ベールがかかったように街は煙っている。当然ながらアオガラスの姿はどこにも見当たらない。
 大したこともできなかったけれど、はねやすめくらいにはなっただろうか。が息を吐くとそれは白く色づいて、霧散した。寒空の下、手当てをしたとはいえ万全でない状態のアオガラスが飛び立って行ってしまったことに、は不安を抱いていた。

 ——あのアオガラスが無事でありますように。そしてどうか、たくさんの幸せなことに恵まれますように。

 深紅の瞳を思い浮かべて、はアオガラスの幸福を祈った。
 それからしばらく、はアオガラスを見かけるとつい目で追ってしまうようになった。しかし、あの特徴的な隻眼を持つ個体と出会うことはなく。時が経つにつれ記憶から薄れて、時折思い出す程度になっていた。


◇◇◇


 翌朝、が目を覚ますと空は晴れていた。
 あんなに大荒れの天気だったのが嘘みたいだ。友人からも晴れを喜ぶメッセージが届いていて、もつられて微笑む。天気予報によれば今日は曇ることはあれど雨は降らないそうだ。
 うきうきしながら支度をして、はナックルシティへと出発した。ブティックを回ってショッピングをしたり、できたばかりのカフェに寄って互いの近況報告をした。久しぶりに顔を合わせたこともありおしゃべりは止まることを知らず、場所をカフェからレストランに変えても続いた。
 おいしい食事と程よく入ったアルコール、それから大好きな友人との楽しい会話。の気分はとっても良かった。
 ……良かったのに。

 二十一時過ぎ、最寄りであるエンジンシティ駅にて。は空を見上げて途方に暮れていた。すっかり暗くなった空を覆い隠す厚い雲、音を立てて降る雨。昼間こそガラル地方にしては珍しく晴れていたけれど、時が経つにつれて徐々に曇ってきていたのはも分かっていた。それでも、雨は降らないと天気予報が言っていたから信じたのに。最悪だ。ナックルシティ駅で友人と別れるまでは、もまさかこんなことになるとは思っていなかった。
 いつ止むのだろう。はスマホで調べてみたが、明日の昼まで雨の予報になっている。駅の中で雨が弱まるまで待つにしても、終電が過ぎれば駅も閉まる。どうするべきか。は悩んだのちにひらめいた。そらとぶタクシーがある。
 ところが、何度かけてもコール音が鳴るだけで繋がらない。きっとガラル中の人々がと同様の考えでそらとぶタクシーを呼んでいてるのだろう。は目の前が真っ暗になる心地だった。びしょ濡れになりながら帰るしかないのだろうか。駅からアパートまではそこそこの距離があるし、パンプスを履いているから走れもしない。深い深い溜め息を吐き、は諦めて駅を出ることにした。駅の出口からそっと外をうかがうだけでも雨の飛沫が飛んでくる。本当に最悪だ。
 が鬱々としながら一歩踏み出そうとした時。向かいの空から何かが飛んでくるのが見えた。目を凝らしても闇に紛れてよく分からないが、距離が近づくにつれ街灯がその姿を照らす。
 ——アーマーガアだ。野生ではなく、そらとぶタクシーのアーマーガア。この駅にいる運の良い誰かが呼んだのだろうか。羨ましく思いつつも邪魔にならないようは駅から出ず、入口の端の方へ避けた。

「もう、アーマーガアってば!」

 雨音に混じって、困ったような女性の声がした。おそらくタクシードライバーのものだろう。着陸したアーマーガアはその呼びかけを気にも留めず、ゴンドラから離れると駅の中を覗き込んできた。黒鉄の身体からは雫が滴り、乾いた床にいくつもの水玉模様を作る。何事かと思って見ていたはアーマーガアと目が合った。
 深紅の瞳に捉えられ、はまばたきもできない。珍しい、右目に傷を負った隻眼のアーマーガア。何かが引っかかる。
 視線を逸らせずにいるのもとへ、アーマーガアは近寄ってきた。二メートル以上ある体躯が間近に迫ると威圧感はかなりのものだ。まるで食べられてしまいそうな気さえする。は身を硬くし、アーマーガアを見上げるしかできない。しばらくそうしていると何を思ったのか、アーマーガアはにずいっと顔を近づけてきた。
 の胸に湧き上がったのは、恐怖よりも既視感。——私は、この子を知っている?

「こらこら、アーマーガア!」

 少し怒ったような声で、は我に返った。タクシードライバーの女性がアーマーガアからの距離を取らせようと、レインウェアに包まれた腕をふたりの間に差し入れている。

「驚かせてしまい申し訳ありません! 普段は自分から進んで人間に近寄っていく子ではないんですが……」

「大丈夫ですよ。ふふ、なにか私が気になったのかもしれませんね」

 が笑顔を見せると、ドライバーも安堵したようだった。場に流れる空気が和やかなものに変わる。しかしアーマーガアは依然としてのことをじっと見ていて、ドライバーはそれを不思議そうにしていた。もなぜこんなにアーマーガアが気にしてくるのか判然としない。
 とにかく場を繋ごうと、はドライバーに話題を振った。

「お客さんの送迎ですか?」

「いえ、車庫に戻ろうとしていたんですが……お恥ずかしながら、アーマーガアが急に言うことを聞かなくなってしまって」

「そうだったんですか……」

 聞けば、アーマーガアはエンジンシティ駅の上空を通過しようとした瞬間、突然方向転換をしたのだとか。「どうしたの、何かあったの」と問いかけてもアーマーガアは構わず駅に向かって下降していくものだから、ドライバーはだいぶ肝を冷やしたらしい。

「お姉さんはご帰宅の途中ですか?」

「はい。……実は傘を持ってきていなくて、駅から出るに出られなくなってしまって。でも、もう諦めて濡れて帰ろうと思っていたところなんです」

「でしたら、お家までそらとぶタクシーでお送りしますよ」

「えっ」

 は思わぬ救いの手に目を輝かせたが、途端に申し訳なさに襲われる。雑談の延長のつもりだったが「傘を持っていない」「諦めて濡れて帰る」などと口にすれば、気を遣わせてしまうだけなのに。ましてや相手はタクシードライバー。乗せてくれと暗に言っているようなものだ。

「すみません、気を遣わせてしまって。あの、私は大丈夫です。車庫に戻られるところだったんですよね? 私のせいでおふたりの予定を狂わせてしまうのは……」

「いいんです、これも何かのご縁ですから! それにこんな雨の中、傘も差さず帰ったら風邪を引いてしまいますし」

 「アーマーガアも、いいよね?」とドライバーが同意を求めると、アーマーガアはこくりと頷いた。の中ではありがたさと申し訳なさがせめぎ合っているが、乗せてもらえるのは願ってもないこと。は「……お願いします」と頭を下げた。


◇◇◇


 そらとぶタクシーはガラルの景観を楽しむためか普段フロントガラスだけしかないのだが、雨のせいか今はしっかりとサイドガラスも設置されている。ゴンドラに乗り込んだはほっと息を吐いた。罪悪感が消えたわけじゃないけれど、にはドライバーとアーマーガアの優しさが嬉しかった。
 がシートベルトを着けたところで、ゴンドラの中にある小型のスピーカーからざらついた音声が聞こえてきた。スピーカーはアーマーガアの背に乗ったドライバーのインカムに繋がっていて、飛行中でもゴンドラの中にいる乗客とやり取りができるようになっている。

「お姉さん、シートベルトは着けられましたか?」

「はい」

「それでは離陸しますね。揺れますのでご注意ください」

 ぐいんと引っ張られるような感覚と共にゴンドラが宙へ浮く。窓の外を覗けば、エンジンシティ駅がみるみるうちに小さくなっていくのが見えた。
 の住むアパートは徒歩ならば駅からそれなりに離れているけれど、そらとぶタクシーならば数分で到着してしまうことだろう。は眼下に広がる夜景を眺めつつ、先ほどの既視感について考えを巡らせていた。
 隻眼と、深紅の瞳。はアーマーガアの他に、それらの特徴を持つポケモンと出会ったことがある。一年ほど前に手当てをしたアオガラスだ。あれ以来はその個体と巡り会うことはなかったけれど、時間が経っているからアーマーガアに進化していてもおかしくない。それを踏まえれば、アーマーガアがになにかを気づかせようとするみたいに見つめてきた理由もなんとなく分かる。
 が答え合わせするようにアーマーガアの仕草をひとつひとつ振り返っていると、再びスピーカーが音を発した。

「お姉さん。ポケモンセンター前の交差点を右折したところにある、公園横のアパートでお間違いないですね?」

「はい、そこで合ってます」

「分かりました。そろそろ着陸しますので、手すりにお掴まりくださいね」

 やはり到着はあっという間だった。が手すりに腕を伸ばすと同時にアーマーガアが速度を緩め、ぐんと下降を始める。まさにあの日、アオガラスを保護した場所であるアパートの植え込みの前にそらとぶタクシーは降り立った。
 シートベルトを外していると、アーマーガアの背から降りたドライバーがゴンドラのドアを開けてくれた。まだまだ雨は勢いを保ったまま、アスファルトに水溜りを作っている。

「お足元、段差になっていますのでお気をつけください」

「はい」

 がゴンドラから出ると、屋根の下へ辿り着くまで濡れないように、アーマーガアが羽根を翳して雨を避けてくれた。鋼の翼に雨粒がぶつかり、固い音を立てている。

「……ありがとう」

 話しかけられると思っていなかったのか、前を向いていたアーマーガアがふとの方を見た。その瞬間、静かな公道に甲高い着信音が鳴り響いて、はびくりと肩を揺らした。音源は近いがのカバンに入ったスマホではない。ならばドライバーのものだろう。ドライバーは慌てて、レインウェアの中に入れていたスマホショルダーを引っ張り出した。

「すみません、会社からみたいで……少し失礼します」

 ドライバーは少し離れた場所で通話を始めた。もしや自分のせいで会社に戻るのが遅くなって、何か言われているのではないか。がそんな心配をしていると暗い影が差す。アーマーガアがゴンドラの上から降りて、の前に寄ってきたのだ。
 もう先ほどのように身構えることもない。は改めてアーマーガアと向き合い、笑みを浮かべた。

「……かっこよくなったね」

 アーマーガアの目が、驚きで丸くなる。があまりにもピンとこない顔をしていたから、気づくことはないと思っていたのかもしれない。は眉を下げて「気づくのが遅くなってごめんね」と続けた。

「あの日のこと憶えてる? あなた、起きたら居なくなってるんだもの。びっくりしたんだからね」

 申し訳ないとでも言うようにアーマーガアは「ガア……」と鳴いた。あの時は怪我さえしていなければに襲いかかって来そうなほどだったのに。一年の時を経て、なんだかやわらかくなったようだ。それはあのドライバーのおかげなのかもしれない。

「でも、あなたが元気で本当によかった。……それに、素敵なパートナーと居場所を見つけたんだね。私はそれがすごく嬉しい」

 が腕を伸ばすと、アーマーガアは身を屈めてくれた。そっと頬を撫でると心地良さそうに目を細める。毛艶は良いし、手を差し出しても警戒しない。きっと大切にされているのだろう。

「お待たせしました! ……あれ。アーマーガアったら、いつのまにお姉さんと仲良くなったの?」

「ふふ。はい、優しい子ですね」

 アーマーガアがに撫でられているのを見てドライバーはきょとんとしていたが、パートナーを褒められて嬉しそうに笑った。
 は精算のために財布を取り出し、運賃を手渡しながら思い出したように言う。

「そういえば会社からのお電話、大丈夫でした? 私のせいでなにか問題になったりとか……」

「ああ、大丈夫ですよ! 事情を話したら理解してくれましたから」

 ドライバーは朗らかに笑って、「むしろ褒められましたよ」と言ってくれた。困っていたに手を差し伸べてくれた、心優しいドライバー。遠くからを見つけて駆けつけてくれたアーマーガア。ぴったりのパートナーだ。

「送っていただけて本当に助かりました。ありがとうございました」

 はアーマーガアから離れ、改めてドライバーに頭を下げた。もともとはふたりが車庫へ戻る——つまり仕事を終えたところだったのを、の事情で助けてもらったのだ。名残惜しいけれど、あまり長く引き留めるのは良くない。

「いえいえ、元はと言えば私が申し出たんですから! ねっ、アーマーガア」

 ドライバーの言葉にアーマーガアが頷いて同意を示す。ふたりの息が合っているのが微笑ましくて、は目を細めた。

「では、私たちはこれで。ぜひまたご利用くださいね!」

「はい。おふたりとも気をつけて。おやすみなさい」

 は雨の中飛び立っていくふたりを、姿が見えなくなるまで見送った。あんなに憂鬱だった心は、今やじんわりとあたたかい。あの日のアオガラスが——アーマーガアが幸せそうで良かった。
 きっと今夜の出来事は一生忘れられないだろう。は小さく鼻歌を歌いながら、アパートの階段を上って行った。


忘れられない夜の話
20231009