酸いも甘いもきみとなら
 だって、予想なんてできなかったんだもの。
 アローラ生まれのわたしが見たことのない、他の地方から連れて来られたポケモン。——ニドクイン、とトレーナーから呼ばれていたっけ。ニドクインはじめんタイプだよってちゃんが教えてくれた。つまり、みずタイプのわたしが有利。バブルこうせんを使えば倒せちゃえるって。そう、思っていたのに。
 まさか、まさか10まんボルトを使ってくるだなんて! そんなの分かるわけないじゃない。

 目の前が真っ暗になって、わたしは気を失った。


◇◇◇


 次にわたしが目を覚ましたのは、石鹸の清潔なにおいがする冷たいシーツの上だった。真っ白な天井。ここはどこ? 途切れてしまった記憶を辿ろうとしていたら、大好きな声に名前を呼ばれた。

「……あっ、オシャマリちゃん。気がついた?」

 そっと私の顔を覗き込んできたのは、わたしのトレーナーであるちゃん。いつもきらきらの笑顔を浮かべているのに、今は少ししゅんとして、元気が無いみたい。
 ほっぺたを撫でてくれるちゃんの優しい手のひらに擦り寄っていると、少しずつ状況を話してくれた。ここはポケモンセンターで、わたしはひんしになって運ばれたんだって。

「さっき、カントー地方から来たトレーナーと戦ってて……ニドクインの10まんボルトで倒されちゃったんだよ」

 ——わざマシンで覚えさせてたんだろうね。びっくりしちゃった。
 ちゃんがしゃべっているのをぼんやり眺めながら、わたしは少しずつ気を失う前の出来事を思い出していた。ニドクインというポケモンと戦って、バブルこうせんをあと一回当てれば勝てると思った時だった。10まんボルトを——みずタイプであるわたしの弱点を突かれて、負けてしまった。
 負け。そうか、わたし負けたんだ。
 頭の後ろあたりが、さあっと冷えていく。ポケモンバトルで負けた。その事実がわたしを押し潰そうとしている。

「オシャマリちゃん、大丈夫? まだどこか痛む?」

 ちゃんがわたしに目を合わせて、そう問いかける。ダメダメ、暗い顔を見せちゃ!
 わたしは跳び上がって、ついでにくるりと回ってみせた。もう全然へっちゃらだよ、とアピールするみたいに。するとちゃんはほっとした顔になって「よかった」と笑ってくれた。
 わたしはちゃんの笑顔が好きだから、わたしのせいで悲しませるなんてことはあってはいけないの。
 心に無理やり蓋をして、わたしは笑った。胸の内側が針で刺されているみたいにちくちく痛むし、変な冷たい感覚は消えない。それでも、笑うしかできなかった。

 わたしとちゃんは負け知らずだった。……ついさっきまで、の話だけれど。
 ちゃんは引き際や、守りに徹するタイミングを見極めることが上手だ。野生のポケモンとの戦いでこちらが不利になってくれば、無理をせず逃げることを選ぶ。わたしが消耗してきたら勿体ぶらずにキズぐすりを使ってくれる。だから負けたことなんて無かった。
 けれどちゃんはたぶん、絶対に一度も負けたくないとか、そういう信念でこれらの行動しているわけではないと思う。わたしがひんしになるまで傷ついているのを見たくないのだろう。だから今回は本当に、文字通り不意打ちだった。どちらかというと負け無しにこだわっているのはわたしの方。ちゃんの無敗記録に傷を付けてしまったんだって、すごく悪いことをした気になっている。
 ——大丈夫、ちゃんは怒ってないんだから。何をそんなに悲しむことがあるの?
 自分に何度言い聞かせても、心が締め付けられるような感覚は無くならなかった。

「それじゃあ、行こっか」

 ちゃんはわたしをモンスターボールに戻さなかった。アローラの景色を眺めながらちゃんの隣を歩くのはすごく好きなのに、素直に喜べない。どうして今なのかな。今だけはボールに戻ってひとりになりたかった。でも、そんなこと伝えたらちゃんはきっと心配してしまう。だから、我慢。
 ポケモンセンターを出ると、アローラの眩しい日差しがわたしたちに降り注いだ。

「ねえ、オシャマリちゃん」

 名前を呼ばれて顔を上げる。ちゃんはやわらかく瞳を細めてわたしを見つめていた。

「ちょっと寄り道していこうか」


◇◇◇


 ちゃんがわたしを連れて行ってくれたのは、メレメレ島にある海繋ぎの洞穴を抜けた先、カーラエ湾。一年を通して観光客で賑わっているメレメレ海と打って変わって、静かで穏やか。けれどアローラ百景に選ばれるほどの美しい場所でもある。
 白い砂浜、水平線の輝き。アローラの島々は海に囲まれているとはいえ、島巡りやバトルに夢中なことが多いから、やって来たのは久しぶりかもしれない。
 でも、どうしてカーラエ湾に来たんだろう。

「潮風が気持ちいいね」

 キャモメが鳴きながら飛んで行き、タマンタが水飛沫を上げながら泳いでいるのが見える。わたしもみずタイプのポケモンだから、海は大好きなのに。暗い気分のせいでどうにも遊ぶ気になれない。

「水着を持ってきてないから、私は海に入れないけど……。ちょっと浅瀬で遊ぶくらいなら大丈夫かな」

 ちゃんはいそいそとサンダルを脱ぐと、寄せては返す波に裸足の爪先を浸した。思ったより海水の温度が冷たかったみたいで、「ひゃ!」っておかしな声で驚いている。自分でもそれが面白かったのか、ちゃんはくすくす笑った。少し後ろに控えているわたしもちゃんに合わせて笑う。
 ちゃんはもう少し海へ足を踏み入れて、ふくらはぎのあたりまでおそるおそる浸かった。短めのスカートを履いているから、濡れる心配はないみたい。ちゃんが足を動かすたびに水面が揺れて、飴のようにつやつや光る。

「……あっ! 見て、あそこにテッポウオがいるよ」

 ちゃんが指差す方向には、言葉通り一匹のテッポウオがいた。テッポウオはわたしたちを見て、不思議そうにしている。その表情に敵意が見えないので襲ってはこなさそうだけど、野生だからどんな行動を取るか分からない。わたしがちょっと警戒していると、テッポウオは閉じていた口をおもむろにパカッと開いて。

「わっ!?」

 なんと、わたしたちにみずでっぽうを向けてきたのだ。だけどバトルで繰り出すような激しさはなかったから、たぶん、単純にからかってきただけなんだと思う。だってテッポウオは海のスナイパーなんて呼ばれているから、本気だったらわたしたちは無事じゃ済まなかったはず……。水をかけられて慌てふためくわたしたちを尻目に、テッポウオが笑いながら逃げていくのが見えた。
 ちゃんは顔に思いっきりみずでっぽうを受け、びっくりして尻餅をついていた。水着が無いから服を濡らさないよう気をつけていたのに、ちゃんは全身びしょ濡れ。髪も服も全部台無しで、目に水が入ってしまったのか瞼を擦っている。
 わたしは心配になってちゃんを見上げた。髪が顔を隠していて見えないけれど、細い肩が震えている。もしかして泣いてる……? どうしよう、と思っているとちゃんが顔を上げた。その瞳に涙は浮かんでいない。

「……ふ、ふふ。あはは! びっくりしたねー!」

 ちゃんはけらけら笑って、わたしに腕を伸ばした。「オシャマリちゃんは大丈夫?」と聞かれて、わたしはおずおずと頷く。てっきり泣いちゃったかと思ったのに。ちゃんは全然気にしていないらしい。
 ほっとして、改めてちゃんと見つめ合っていたら。濡れて重たくなった髪がちゃんの顔の真ん中に垂れ下がっていて、怖い映画のオバケみたいになっていることに気がついた。それがなんだか、とってもおかしく思えてきて。まだ笑っているちゃんに釣られて、わたしも笑ってしまった。

「……ふふ。オシャマリちゃん、やっと心の底から笑ってくれたね」

 髪をかき上げて、ちゃんは言った。わたしはぴたりと動きを止める。
 ちゃんにはバレていたんだ。わたしが、無理に笑っていたこと。でもどうしてだろう。完璧に隠せていたはずなのに。
 見破られたことに動揺して、困った顔をしていたのかもしれない。ちゃんはわたしを膝の上に乗せてそっと微笑んだ。

「だって、笑ってても可愛い八重歯がぜーんぜん見えなかったんだもん。無理してるってすぐに分かったよ」

 ちゃんが右手の人差し指で、わたしのほっぺたをつんとつつく。

「バトルで負けたのって、何気に初めてだったし。もしかしたら気にしてるのかなって思ったんだ」

 全部、ちゃんはお見通しだったんだ。わたしが元気を無くしていることも、それを気取られまいと隠していたことも。寄り道しようってカーラエ湾に連れてきてくれたのも、わたしを元気づけるためなんだろう。
 優しいちゃんの笑顔が、ぼんやりと歪んでいく。わたしの涙がぽろぽろこぼれて水面に小さな波紋をいくつも作った。思わずちゃんに抱きつくと、すかさず両腕がわたしを包み込んでくれる。

「負けた悔しさ、オシャマリちゃんだけが背負う必要は無いからね。私もまだまだ未熟だし……判断ミスのせいであなたが傷つくところを見ると、すごく自分が情けなくなるの」

 ——だからさ、これから一緒に強くなっていこうよ。旅は始まったばっかりなんだもん。
 そう言ってくれたちゃんに、わたしはとびきり元気な声で返事をしてみせた。

「よかった、元気になってくれたみたいで。わ、私……」

 ちゃんは途中で言葉を切り、大きなくしゃみをひとつ。いくら温暖なアローラとはいえ、服が濡れたままじっとしていたら身体は冷えるもの。ましてや水着でもなく普通の服を着たままなんだから。風邪引かないようにね、と伝えようとして、わたしもくしゃみが出た。お揃いだねって顔を見合わせて笑う。心に巣食っていた暗い気持ちは、もうどこかへ飛んでいってしまっていた。

「このままじゃどこにも行けないし、家に寄っていこうかな」

 今度はちょっぴり困った表情になってちゃんは腰を上げた。スカートから海水がぼたぼた滴って、わたしたちの周りにだけ雨が降っているみたい。
 そういえばちゃんのママに会うのは久しぶりだ。わたしがまだアシマリだった頃に会ったっきりだから、進化した今の姿を見たらなんて言うかな? ちゃんとそっくりな笑顔で喜んでくれるのかな。

「でも……こんなびしょびしょで帰ったら、ママに叱られちゃうかもね」

 「まったく、なにして遊んでたの? って」ちゃんはママの口調を真似をして、さっきのテッポウオみたいにいたずらっぽく笑った。たしかに叱られちゃうかもね。ママはちゃんのことを大事に思っているから、風邪なんて引いてほしくないはずだもの。

 でも、その時はわたしも一緒に叱られるよ。わたしがつらい気持ちの時にちゃんが寄り添ってくれたみたいに。楽しいことも悲しいことも、ちゃんと分け合ったらなんだって乗り越えられる気がする。だからずっとずーっと、一緒に居てね。


酸いも甘いもきみとなら
20230910
20231203一部修正
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