例えるなら良く晴れた日の空や、清冽なせせらぎの水面にも似た色をしていた。透明な石。よく目を凝らすと薄ら水色がかっていて、雫のように滑らかな形をしている。それを繋ぐ細い革紐は、ネックレスと言うにはやや短い。ストラップと表すのが適切かもしれない。
ベレトの瞳は、興味深そうにじいっと石を見つめたあと、それを手渡してきたに視線を向けた。目が合えば、彼女は口元を綻ばせる。
「私の領地では、その石を魔除けとして身につけるのが良いとされているんです」
「そうなのか」
なぜ俺にこれを? とベレトが問うより前に、はぽつぽつと話し出した。
「もうすぐ卒業でしょう。そしたら私は領地へ戻ります。先生は……これからも教師として勤めるのですか? あるいは、また傭兵に戻られるのでしょうか」
そう遠くはない、未来の話だ。
長子であり、紋章を持つはおそらく爵位を継承するのだろう。ベレトの受け持つ学級にも、彼女と同じような道を辿るであろう者は多い。
生徒の進路ばかりを考えていたが、いざ己のこととなると思いつかない。教師として来年度も生徒を受け持つのか、傭兵に戻るのか、あるいは……。思い描いたどれもが漠然としていた。
一年前、まさか教鞭を取ることになろうとも、父親であるジェラルトと死別するとも考えていなかった。良くも悪くも先のことは分からないものだ。
ベレトはからの問いに答えられなかった。しかし特に言葉を待つ素振りはなく、彼女は続ける。
「どちらにせよ、離ればなれになってしまいますね」
ベレトはこくんと頷く。に限ったことではないが、卒業したら再び顔を合わせるのは格段に難しくなる。爵位を継承する者、婚姻を結ぶ者、家業を継ぐ者、夢見た職に就く者。それぞれが忙しなく毎日を送り、やがて士官学校で過ごした日々はゆっくりと色褪せてゆく。たまに記憶の底から引っ張り出し、懐かしむ程度になってしまうのだろう。
——五年後の星辰の節、またみんなで修道院に集まりましょう。
そんな約束を学級の生徒たちと交わしたのを、ベレトはふと思い出す。その中にの姿はなかった。
そう、はベレトが受け持つ黒鷲の学級アドラークラッセの生徒ではないのだ。
「どんな未来であれ、私はそばには居ないのでしょうけれど……先生の前途が順風満帆でありますように願っています。これはほんの気持ちです」
言わば、餞別のようなものだろうか。立場を考えるとベレトの方が贈るべきである気もするが。
ベレトはもう一度石を見遣った。手の中にあるそれは光を反射してちらりときらめく。清い輝きは形も相まって聖者の涙のようで、なるほどたしかに魔除けの効果がありそうに思えてきた。
「ありがとう。大切にする」
は嬉しそうに微笑んだ。
ベレトは何度か、を黒鷲の学級に編入しないかと誘ったことがある。しかし彼女が首を縦に振る日は終ぞ来なかった。それでもは課外授業に協力してくれたり、ベレトが食事に誘えば快く同席してくれたりと、良好な関係を築けていた。だからこそ、なぜ来てくれないのかと思わなかったわけではない。けれどベレトとて理解している。教師の講義に不満も無く、親しい友も居るならば、馴染みの学級を抜ける理由は無いからだ。
けれど、ベレトは時折考える。もしもが黒鷲の学級に来てくれたなら。誰と気が合いそうか。対して、そりが合わなさそうなのは誰か。稽古を共にするのは誰か。そして——どんな風にベレトの講義を受けるのだろうか、と。今となってはもはやあり得ないこと。
「。君のことは忘れない」
「ふふ。私も、先生のこと忘れません」
ふたりで交わした会話はこれが最後だった。
翌節、ベレトは教団に対して宣戦布告をしたエーデルガルトと共にガルグ=マクを攻め込んだ後、姿を消した。
——それで終われば、よかったのに。
雨の降りしきるグロンダーズ平原。ベレトは血に塗れた天帝の剣を手に、立ち尽くしている。視線の先には、記憶に残るよりも五年分大人になった。ただしふたりとも笑顔は無く、に至っては腹から血を流して倒れている。ベレトが手をかけたのだ。
この出血量ではもはや助からないだろう。はぜいぜいと苦しそうな呼吸を繰り返し、胸が激しく上下している。
ベレトは帝国軍、は王国軍に所属している。それだけですべてに説明がつく。帝国軍の快進撃は止まらず、王国は領地のほとんどを制圧されていた。背水の陣だったのだろう、を含む王国兵はほとんど捨て身とも言える攻勢であった。
の手はサンダーソードをしっかりと握りしめている。けれど、その腕が上がることは無い。攻撃の機会をうかがっているのではなく、痛みに耐えようと力を込めているだけだからだ。
かつてベレトが陽だまりを溶かしたようだと思った双眼は虚ろに濁り、いつも薄桃に染まっていた唇は色を失っている。彼女が荒い息に混じって時折咳込むと、鮮血がそこかしこに飛び散った。
エーデルガルトの理想が現実へ変わるまで戦うと誓ったあの日、ベレトの心は決まったはずだった。障害になるならば教え子も同僚も殺してきた。それなのに今、目の前で消えゆくたったひとつの命に、どうしようもなく狼狽している。
——なぜ、あれほど熱心にを自学級へ誘っていたのか。その答えをベレトは理解していた。理解していて、心の奥底へと押しやっていた。できるならば最後の会話どおりに、時たま取り出して愛でる過去の記憶にしてしまいたかったのに。
の長いまつ毛から雫が滴ると、それがまるで涙に見えた。まだ彼女が生徒であった頃ならば、拭ってやることができたのだろうか。否、敵対さえしていなければ、こんな目には遭わせなかった。
「先生……」
息も絶え絶えに、何かを言おうとは必死に口を動かす。その大半は呼吸音と雨音に紛れてしまってベレトの耳に届く前に消えてしまう。これほどに満身創痍なのだから、反撃されることは無い筈。ベレトはそっと傍らにしゃがみ込んで言葉を待った。
の瞳が、つとベレトを捉える。刹那、かさついた唇がやわく弧を描いた。
「魔除けの……効果、あったみたい、ですね」
自嘲を多分に含んだ笑みだった。
あの魔除けは肌身離さずベレトの帯革に着けられていた。それが目に留まったのだろう。ベレトの前途が明るいものであるよう願い、いつかが贈った魔除けの石。何の皮肉か、その除かれるべき魔が他でもない己であったと——そう言っているのだ。
乾いた笑い声を最後に、は瞼を閉じた。ベレトが目を見張っている間に命の灯火が消えたのだ。
敵将のひとりを討ったと、帝国兵たちは歓喜の叫びを上げた。士気は最高潮に達している。このまま行けばディミトリを討つのも時間の問題だろう。喜ぶべきだ。エーデルガルトの望んだ世界が手の届くところまで来ている。
——。
もう長いこと呼んでいなかった名前が、無意識にベレトの口をついて出た。当然ながら返事は返ってこない。
がベレトの幸せを願ってくれたように、ベレトも彼女が幸福であることを望んだ。その気持ちに偽りは無かった。本当に、ひとつも嘘など無かったのに。
雨はまだ止まない。返り血で汚れたベレトの頬を洗い流し、死してなお止まらないの血潮を地に染み込ませている。
ベレトは雨と同じ色をした石を、その掌に握りしめた。忘れないと約束した時の笑顔が、今でも瞼の裏に焼き付いている。その思い出は血塗られた殺し合いに上書きされてしまった。この先、との記憶を掘り起こすたび、ベレトは彼女に刃を突き立てたことを何よりも思い出すのだろう。
救いは無い
20221030