※男主
「ずっと貴方に会いたかった」
そう言って己の神域を訪ねてきた男のことを、蓮美はよく憶えている。風の色をした髪と、深海を映した瞳。広い額には呪印が刻まれていた。朱点童子の呪いを受けた、かの鬼斬り一族のひとり。そういえば、交神をしてやってほしいと昼子様から仰せつかったのだったわね——蓮美はぼんやりと思い返す。人間と交わり、子を残す。だがその子は短命と種絶の呪いを継いで生まれてくるのだ。朱点童子を討たない限りは。
「大江山の朱点は仮の姿だったのです。あいつを——黄川人を倒さなければ。そのために、貴方のお力を貸して頂けませんか。八葉院蓮美様」
男は優しい顔で笑った。忌まわしき呪いで死にゆく家族を見送り、自分も同じ道を辿ろうとしているのにどうして笑えるのか。蓮美は不思議でたまらなかった。
やがて生まれたのは女の子どもで、どちらに似たのかとてもお転婆な性格をしていた。面倒を見ていた数ヶ月間、どれほど手を焼いたことか。それでも昼子によく似た侍女が迎えに来て、我が子を下界へ連れて行った際に一抹の寂しさを抱いてしまったのも事実だった。人間だった頃の名残りか、絆されてしまったのか。
あれから何年が経っただろう。いつぞや、男の遠い子孫たちにより朱点童子こと黄川人が倒されて、京の都には平和が戻った。天界も、お輪が赤子の姿となった黄川人を連れて帰って来た時には騒然としたが、今ではどうにかやっている。
朱雀大路の外れにある屋敷では、呪いから解放された一族が暮らしている。その中の一人、男の玄孫に当たる少女の額には忌々しい呪印の輝きはない。きっとあの子は、幻灯でしか彼のことを知らないのでしょうね。蓮美は呟き、水面に浮かぶ蓮の花を指先でくすぐった。旬を迎えた高貴な色の花は瑞々しい香りを振り撒いている。
蓮美が男と出会ったのも、蓮の花が最も美しく咲く七月のことだった。
「そういえば彼は、この花を褒めてくれたんだっけ」
——蓮は泥より出でて泥に染まらず。貴方に似て、清らかな花ですね。
そんな風に言ったのはあの男が初めてだった。諳んじてしまえるほど頭の中で反芻した言葉。あたたかい声の温度も鮮烈に思い出せる。蓮美の薄い唇がやわらかく弧を描いた。
男との出会いも我が子と過ごした数ヶ月も、蓮美にとっては瞬きをする時間に等しい刹那の出来事。だとしても、その短い間に男が遺していったものは蓮美の中で未来永劫輝くのだろう。
心蓮
20190922