きみがため
 それはいつにも増して空気が澄んだ、夜半のことでした。
 唐突に目か覚めた僕は寝ぼけ眼のまま障子を見遣り、朝がまだ来ていないことを知ると布団をかぶり直して瞼を閉じました。変な時間に起きてしまった、と考えていると再び眠るどころか何故だか意識がはっきりとしてきて、耳に飛び込んでくる風の音だとか木の葉のざわめきを聞いて外の景色を暗闇に思い浮かべてしまうのでした。星の点在した夜空に浮かぶ、青白い月。昨日はよく晴れていましたから、きっと今宵の月はいつになく美しいのでしょう。そう思うと僕は居ても立っても居られなくなり、近くでうずくまって眠っている五虎退を起こさないように布団を抜け出すとそろそろと障子をすべらせ、部屋を後にしました。
 まるで薄氷を散りばめたような冷たい空気が肺を満たします。布団に入っていたためにぬくぬくとしている僕の身体には丁度良い温度でした。素足が縁側の床を移動する、乾いた音が小さく響きます。それは、昼間であれば誰の耳にも留まらない些細な音なのでしょう。なんだか、この本丸に僕しか存在していないのではないかという心細い気持ちになってしまいます。先ほどまで厚と五虎退に挟まれて眠っていたのに、おかしな話です。
 夜は孤独を際立たせます。理由は分かりませんが、悲しい感情を大きくしてしまいます。もしや寂しげな月光や痛いほどの静寂がそうさせるのでしょうか。世界に自分だけが置き去りにされたような、そんな心地に。

 取り留めのないことを考えながら歩いていると、誰かが縁側に腰掛けていることに気がつきました。僕は夜目が利くので、離れていてもその人が誰であるのかすぐに分かりました。主です。寝巻き姿で、どうやら空を見上げているようでした。
 主、と思わず口の中で呟くと、自分でも聞き落としてしまいそうなくらいの声量だったにも関わらず主は僕を見つけ、目を細めました。

「平野くん。こんばんは」

「……こんばんは」

 月明かりが、風に揺れる主の髪に冷たい光を宿します。主は微笑を浮かべると、ご自身のお部屋の襖を開けて僕を手招きました。

「冷えるでしょう。どうぞ中へ入って」

「いえ……こんな時間に、主のお部屋へお邪魔するわけには」

「私、目が冴えてしまって。だから、警護がてらお喋りに付き合ってほしいな」

 それでもダメかな、と主は小首を傾げながら仰いました。そんな風に言われては、僕に断れるわけもなく——それに、普段は食い下がることのない主のささやかなお願いを叶えて差し上げたいという気持ちもありました。
 主のお部屋に入るのは初めてではありませんでした。近侍を命ぜられれば、おそばで主の執務を補佐する役目も担うことになりますし、呼び出されればお邪魔することもあります。だから、何も緊張することはないのですが、夜に招かれたことは初めてだからでしょうか。どことなく落ち着きません。

「わがままを言ってごめんなさい」

 主は鉄器の燭台に蝋燭を差し、火を灯しながら呟くように言いました。淡い色のあたたかい光がお部屋をふわりと満たします。

「わがままだなんて、とんでもありません。むしろもっと僕たちを……僕を頼っていただいて構わないんですよ」

「ありがとう。平野くんは優しいのね」

 主は口の端を持ち上げて笑いました。主の笑ったお顔は美しいのです。美しいのに、なぜかいつも寂しそうだと思ってしまいます。
 揺らめく火は僕たちをやわらかく照らしています。白い漆喰の壁には、長く伸びた僕と主の影が映っていました。

「平野くんはこんな時間にどうしたの? 目が覚めてしまったとか?」

「はい。いつもでしたら、またすぐに眠れるのですが……。今日はどうしてだか、寝ようとすればするほど意識がはっきりしてしまって」

「そういう日もあるものね」

 こんなに喋る主は、初めてです。
 主は、口数が少ないというわけではないのですが、必要以上の会話はあまりしません。その瞳からは様々なことに考えを巡らしているのが窺えるのですが、それを口に出すことは無いのです。きっと今だって、主は考えていることの末端程度しか見せてくれてはいないのでしょうけれど、それでも僕は主がたくさんお話ししてくれることが嬉しいのでした。

「主も眠れないのですか?」

「ええ。……眠れないのはよくあることなんだけど、そんな時はさっきみたいに月を見ているの」

「そうだったのですか……」

 僕は相槌を打ちながら、先ほどの主の姿を脳裏に描きます。宵闇にさらわれてしまいそうな儚さをまとって月を見上げる主は、さながら竹取物語のかぐや姫のようでした。月を見つめてはいつかやって来る別れを憂う彼女みたいに、主も何かを嘆いているのでしょうか。

「主」

「なあに?」

「眠れない時は僕を呼んでください。話し相手くらいにはなれると思います」

「……ありがとう」

 主は目を伏せて、花の蕾がほころぶかのようにふんわりと笑いました。そこに、いつも感じる寂しそうな色はありません。思い上がりかもしれないけれど、もし僕の言葉であの悲哀を取り除くことができたのだとしたら。それはとても光栄なことだと思いました。
 その日から、僕と主の距離は近づいた気がします。近侍を任命される頻度も増え、畏れ多いことに同じ部屋で布団を並べて寝ることもありました。もちろん衝立で隔てられてはいますが、たくさんのことを話しました。主のお誕生日、好きなもの、好きなこと。今ではこの本丸において主について一番知っているのは僕だと言っても過言ではないでしょう。
 春は桜を眺め、夏は蛍を追い、秋は虫の声を聞きながら読書をし、冬は火鉢を囲んで餅を焼きました。僕の一年の思い出は主と過ごした時間でいっぱいになりました。兄弟にも、他の刀剣にも秘密。その言葉が、胸に熱いものを植えつけました。
 僕が主に特別な思いを抱いていることを自覚するようになったのは、そう遅くはありませんでした。

「主、お話ししたいことがあります」

 恋慕を自覚してからというもの、僕は強くなりたいと切に願いました。しかし願うだけでは与えられません。そのことはよく知っています。だから、修行に出たいと主に申し出たのです。
 主は一瞬、驚いたようで息を呑んでいましたが、その後には快く送り出してくれました。僕は主も期待してくださっているのだと胸を張って本丸を後にしました。主が、どんな気持ちでいたのかも知らずに。


◇◇◇


 修行を終えて本丸へと帰還した夜。僕は主に呼び出されました。久々にやって来た主のお部屋は、相変わらず私物が少なくて質素です。文机の片隅に重ねられた書物は綺麗に整えられていました。僕が居ない間も、近侍であった誰かがちゃんと主の補佐をしていたのでしょう。当然のことですが、勝手な僕の心はしくしくと痛みました。主の補佐が務まるのは僕だけであれば良いと、思ってしまうのです。

「平野くん」

「はい」

「こうしてふたりきりで話すのも、久しぶりね」

「そうですね」

 主は僕と過ごした時間を懐かしんでいるようでした。蝋燭の優しい灯りを見ていると、初めて夜中に主とお話しした日のことを思い出します。あの日もこんな風に静かで、空気の澄んだ夜でした。

「私、平野くんが修行に出たいと言った時、とても驚いたの」

「それは、すみません。あまりに唐突でしたよね」

「ううん。唐突だったからじゃなくて」

 主は言葉を切ると、苦しげに眉を寄せました。どこかお身体が痛むのかと思い、声をかけようと口を開きかけた瞬間、僕は主に抱きしめられました。幼子が大切な人形を離したくないと駄々を捏ねるみたいに、強い力でした。そして僕の背中に回された腕は震えていました。胸が高鳴るよりも、どうかされたのかという心配が先立ちます。

「主?」

「ずっと一緒に居たのに、あなたの意志に気づけなかった。私はあなたのことなんて何ひとつ分かっていなかったんだと思い知らされた。だから、あなたが修行で留守にしている間、私はずっと考えていたの。あなたは私の隣で何を見ていたんだろうって」

「……」

「私はあなたと夜を明かして語り合った日から……いえ、この本丸へ連れて来られた日から一歩も進んでいないのに。あなたは私を追い越して、遠くへ行ってしまいそう」

 吐露された感情は僕に向けられたものでしたが、主が何に苦しんでいるのか、その全貌は把握できませんでした。けれどひとつだけ理解できるのは、主が焦燥に駆られているということ。僕がいずれ主から離れていくのだろうと怯えているようなのです。
 ——僕が加賀で、主が泣いてそうな気がしたのはあながち間違いではなかったようです。おそるおそる、主の髪に指を通します。さらさらとすり抜ける髪は春の花の香りがしました。

「僕が主を置いて行くわけがありません。言ったでしょう、地獄の底までお供いたしますと」

 あれは、覚悟を表すための比喩表現ではありません。その言葉通りの意味を持っているのです。たとえ地獄の底だろうが、主の向かわれるところであるならばどこまでも。もう僕は主と離れるつもりなんて更々無いのですから。

「たとえ僕がまたどこかへ行ったとしても、必ず主の元へ帰ってくると約束します」

 そう言うと主は顔を上げてくださいました。その拍子に潤んだ瞳から涙が一粒こぼれ落ちます。それをハンカチで拭って差し上げると、主の表情が少し緩みました。

「もう悲しませないと誓いますから、どうかこれからもおそばに置いてください」

 主は迷いなく頷いて、ようやく笑ってくださいました。世界で一番好きな笑顔です。僕も釣られて笑いました。
 僕はまだまだ強くなりたい。それは他の誰でもない、あなたのために。


きみがため
20170922
20230910 加筆修正