ラブカスのことばかり考えている
何をしていても落ち着かない。いつもより一時間も早く目が覚めて、二度寝しようにも目が冴えてしまった。テレビを観ていてもスマホをいじってもそわそわして、内容に集中できない。こんな時は散歩だ。ぐるりと街を一周して気持ちを落ち着かせよう。
そんな理由で散歩に出かけたら、途中に通りがかった洋菓子店からバターの良い香りが漂っていて、ついつい足を止める。たしか、最近できたばかりのお店だったはずだ。まだ準備中だろうかと思ったが、瀟洒な意匠を凝らしたドアにかけられたプレートは「OPEN」になっている。引き寄せられるように入店してしまった私は、可愛らしいケーキや色とりどりのマカロンに目を奪われていた。
どれにしようか吟味していた時。あるクッキーを見つけて、私は思わず手を伸ばしたのだった。
洋菓子店をあとにした私は、踊るようにうきうきした気持ちで海辺へと向かった。私が住むこの地は港町で、どこにいても風に乗って潮の香りが届くほどだ。太陽に撫でられた波が銀色に光って目に眩しい。
転ばないよう岩場をゆっくりと移動し、私は穏やかな水面に向かって呼びかける。
「ラブカス」
数秒待つと波を掻き分け、ピンク色の顔が覗いた。顔馴染みのラブカス。この子は私の手持ちでは無いけれど、いつぞや群れからはぐれ一匹で弱っていたところ、ペリッパーに襲われかけていたのを助けたことがきっかけに懐かれた。今では元気になったみたいで、どうにか狙われないよう試行錯誤しつつこの海で暮らしているようだ。私は定期的に様子を見にここへ来ることにしている。ラブカスも歓迎してくれているようなので。
そっと手を出せば擦り寄ってくる仕草が可愛らしい。綺麗に揃ったウロコが光を浴び、ほのかにきらめく。
「今日はいいもの持ってきたんだ」
私はカバンの中から例のもの取り出してラブカスへと見せた。透明なフィルムに包まれ、赤いリボンで口を結ばれたそれの中身は手のひらサイズのアイシングクッキー。それもラブカスを模ったものだ。見れば見るほど本物と瓜二つ。
ラブカスはつぶらな瞳でクッキーを眺めて、それから喜ぶようにくるりと回った。
「素敵だよね。あなたのこと思い出して、つい買っちゃった」
食べるのがもったいないくらいだ。
袋を開けてクッキーを取り出す。ごめんなさいと呟きながら半分に割って、ひとつをラブカスに食べさせてあげる。さくさくと小気味良い音を立てて頬張るラブカスはクッキーが口に合ったようで、ご機嫌に身体を揺らした。私も残りの半分を口に運ぶ。アイシングには砂糖がたくさん使われていると聞いていたから、べたべたに甘いのかと思っていたけれどそんなことも無く。噛み砕かれたクッキーはバターの風味を残し、口の中でほろほろと崩れた。
「ふふ、可愛いだけじゃなくて味もおいしいね」
私が微笑むと、ラブカスもぷくぷくと空気を吐き出して笑った。ふたりのあいだを優しい潮風が通り抜けて、私の髪をさらっていく。
こんなに心地良いのに、服の下の胸は早鐘を打っていて苦笑いが出そうだ。何か話さなければと私がもごもごしていると、ラブカスは矢庭に海の中へと戻っていく。それがあまりに唐突だったので私が呆気に取られていると、意外なことにすぐ水面へ帰って来た。
「どうしたの?」
ラブカスは小さな小さな口に何かをくわえていた。それを私に差し出しているのか、つんつんするような仕草をするので手を伸ばして受け取る。
それは、ラブカスの愛らしい身体を構成するもののひとつ。ハートのウロコだ。光の当たり具合で虹色に輝いて、溜め息が出るほど美しい。生え変わりの時に取れたものか、海の中に落ちていたのを拾ったのか。
「綺麗……。私にくれるの?」
ラブカスは元気よく返事をして、こくりと頷いてくれた。「ありがとう」と伝える私の声は少し震えていたかもしれない。ラブカスは丸い目をさらに丸くして、どうしたのかと私を見上げる。無くさないようポケットの中にハートのウロコをしまって、私は首を横に振った。
「ううん、なんでもない。……そういえば、ハートのウロコを持ってると恋人ができるって噂、一時期流行ってたなあ」
過去にはそのためにラブカスが乱獲されて、社会問題にもなっていたと聞いた。ひどい話だ。
ラブカスも身に覚えがあるのか、ぷるぷると身体を震わせている。
「ご、ごめんね、嫌なこと思い出させちゃって。でも私はハートのウロコに頼る必要無いんだ。運命の相手ならもう出会ってるもの」
ねえ、分かる? それはあなただよ。
そう言うと、ラブカスは何を思ったのかぴょんと飛び上がった。それはマンタインが波を追い越して跳ねる時のように勢いが良くて。このままでは岩場に落ちてしまう。私は咄嗟に腕を伸ばして受け止めた。
結構大きいし、重たい。ラブカスって確か8キロはあった気がする……。案の定バランスを崩した私は、尻餅をついて倒れ込んだ。
「いたた……。ラブカス、大丈夫?」
どこか擦りむいてしまったりしていないだろうか。尋ねてみても、ラブカスはなんだかうっとりして私に身体を預けているだけ。海水が服にじわじわと染みてきているのに不快な気分にならないのは、相手がラブカスだからなのだろうか。
「……私、本当はクッキーを渡すためだけに会いに来たわけじゃなかったの」
丸みを帯びたラブカスの身体を撫でながら、私はずっと言いたかったことをひとつずつ打ち明ける。
朝、いつもより一時間も早く起きてしまったのも、何をしていても落ち着かなかったのも、すべてをラブカスに伝えようと決心していたからだった。
「ずっと大事にするって約束するから。……ラブカスが良ければ、私のパートナーになってほしいなって、言いに来たの」
ついに言ってしまった。手のひらが震えている。もっとたくさん自分の気持ちを伝えたいと思っていたのに、いざとなると言葉が出てこなかった。
俯く私の頬に、ラブカスがそっと口を押し当てた。キスされたのだと思う。それから再び私の腕にこてんと寄りかかって、嬉しそうに笑った。
「……それが、あなたの答えだと思ってもいい?」
私の問いかけに、ラブカスはとびきり優しい鳴き声で返事をしてくれた。それだけでもう、十分だった。
20231022